2026年8月、in・stru(men-tal). MIHARAYASUHIROとUNIONのコラボレーションコレクションがローンチします。リラックス感のあるモノトーンベースのアパレルラインナップと、MMYを象徴するオリジナルソールを携えたスニーカーから成るユニセックスコレクションは、LA、東京、大阪のUNIONなどで世界同時発売。UNIONオーナー、クリス・ギブス(Chris Gibbs)の友人である三原康裕さんのアトリエにお邪魔し、コラボレーションについて、三原さんのキャリアについて、サーフィンやスケートボードや音楽について、笑いながら伺っていると、気づけば2時間経っていました。三原さんらしい思考や意外な一面を通して、両ブランドとこのコラボレーションの魅力が、少しでも深く届きますように。
- まずはUNIONについての印象や、クリスとのつながりについて教えてください。
三原: UNIONはカルチャーにとってもすごく重要なお店だと思います。アメリカの印象って、世代によって違うと思うんですよね。少し上の世代の方々からすると、アメリカと言えばいわゆる昔の『Popeye』のイメージとか、アメカジとか。もちろんそれもあるんですが、僕にとってはどちらかというと、小学生の時に出会ったヒップホップカルチャーがあるんです。僕が小学校からヒップホップだったって初耳だと思うんですけど(笑)、本当に83年頃はそういう感じで。11歳の時にサーフィンを始めて、そこから子供なのにディスコに行ったりしてたんですが、そう、クラブじゃなくて当時はディスコなんですよね。そこでブレイクダンスだったり、ニューヨークのブラックカルチャーだったり、西海岸の明るい感じのサーフ、スケートカルチャーに出会って。そういうカルチャーをドンズバで体現してるのがUNIONだなって思います。クリスって何歳?
UNION TOKYO:クリスは確か52歳だったと思います。
三原:でしょ?ほら、同じ世代なんです。僕も54歳。だから、当時の僕らの先輩たちってこうだったな、と思うような感じが形になったようなお店っていうイメージがありますね。特にUNIONはLAのイメージが強いんですが、僕、西海岸って結構憧れで、行ったことはあるけど実際に浸ったことがないというか。小学生でサーフィン始めたけど、サーファーっぽい格好は嫌だったんですよ。それこそサーフマガジンを開くと、ジェリー・ロペス(Gerry Lopez)風のいわゆるサーファーっぽい写真がいっぱい載ってるんだけど、それとは別に、たまにちょっと尖った人たちが出てくるんです。それがサンタクルーズとかマリブとかの、サーフとスケートと音楽とアートがぐちゃぐちゃになったような感じで。スポーツのようでありながら、カルチャーとしてオルタネイティブな感じがあって、それに憧れてたんです。今でこそUNIONって老舗的な扱いですが、僕的にはオルタネイティブが詰まった場所、みたいな印象なんですよね。
- クリスと出会ったきっかけは何ですか?
三原: 昔からクリスがバイヤーとして来てくれてはいたんだけど、ギュッとなったのは最近で。
UNION TOKYO:クリスは三原さんの靴ももちろん好きですが、三原さんの服に対しても、すごく熱を持ってるんですよね。
三原: ここ何年かでより距離が近くなりましたね。結局、肩の力を抜いたようなニュートラルな服が好き、みたいな話をクリスとしたんですよね。僕らが若い頃ってそういう服しかなかったし。ホントのコト言うと、僕、モードってちょっと変だなって思ってるんですよ(笑)。自分の世界みたいなのもあるけど、僕ちょっとこう…斜めから見てるんで。ファッション業界に30年くらいいるんですけど、よく思うんですよ。こそばゆい、みたいな。多分ね、アンチテーゼがずっとあるからで、だから逆にこの職業も続けられてるんですけど。 それこそ僕が16歳の時、福岡のクラブにいたロンドンファッションのやつを見てすげーおしゃれだなって思ったんですね。Christopher Nemethとか着てる感じの。それまではロンドンファッション=(イコール)パンクと思ってたんですけど、そこに何かアートみたいな要素もあって。かたや僕なんて、アロハシャツにライダース着て、短パンにNikeのジョーダンファースト履いてるみたいな、「イメージの西海岸」ていう感じだったから、そのロンドンスタイルがすごいおしゃれだなーって。ファッションって、多分結構そういう身近で素朴なモノとか感覚だと思うんですよね。でもモードについてはアンチテーゼを感じてしまうというか、やっぱりちょっと…ちょっとこそばゆいんですよ(笑)。
- (笑)モードはカッコつけてる、みたいな事ですか?
三原:というか、モードって自然か自然じゃないかっていうと、反自然的な行為を人間に課す部分もあるじゃないですか。例えばハイヒールなんてその極致で。自然的なことだったらビーサンでいいや、みたいになっちゃう。だからそういう点で、狂気と戯れて、理性に背いてる感じは、モードってすっごく興味深いし、面白いんですけどね。
- 三原さんて、アートからのモード、みたいな印象があったんですが、根本はストリートなんですね。
三原:僕が小学校の時って、MA1にチノパン履いて、スニーカーがちょっとおしゃれだとK-Swissの白とかで。Reebokが出始めた頃なんですよ、まだ。Nikeでも、量販店に並んでるNikeが嫌で。
UNION TOKYO:並行輸入の買ってましたよね。量販だと色がヤバくて。
三原:そう!並行輸入。量販店には変な色しかないから、アメリカからのやつが欲しくて。ジョーダンファーストなんて飛びついて買いに行ってましたよ。当時2万8千円くらいで高かったんですけど、小学生の自分の貯金を、もうかき集めてね、買った思い出があるんですよ。あと靴紐も。ファットレースが日本にはなくて。ニューヨークに行った人に頼んで買ってきてもらったんですけど。当時1ドルが360円だったんですよ。知らないでしょ?
- 1ドル360円!!てことは、たいそう高級なシューレースをお召しに…。
三原:そうですよ~。ちょっとスニーカーの話になっちゃうけど、当時は製品が今みたいに良くなかったから、こうちょっとね、(ソールの中央が上に反ってアーチ状に)内反りするんですよ。キュって。それがね、逆にかっこよくて。そういうの履いてるから、80年代のブレイクダンサーとか、RUN DMCの足元も、みんな(踵からつま先まで)ペタッてなってるんです。けど、日本製のやつはちゃんとね、前が(上に)反ってるんですよ。それがちょっとイマイチで。 パフォーマンスシューズだと前が反ってる方が絶対いいんだろうけど、カルチャー目線だと、なんかね、ペタッてして欲しいんですよ。だから僕のOGソールは結構ギリギリの線を攻めて、ペタッを目指してるんです。最近で言うと、ジェリー・ロレンゾ(Jerry Lorenzo)のFear of Godぐらいじゃないですかね。ペタッをペタッとしてちゃんと捉えてて、いいねって思います。当時の雰囲気が出ててね、履くとかっこいいんですよ。
- 三原さんのソールのお話が出たところで、あの粘土のようなかたちの誕生秘話などあれば教えてください。
三原:あれはですね、1999年頃からPumaでスニーカーのデザインに携わるようになって、2000年にPumaとの最初のコラボレーションシューズを発売したんですけど、インターネットも今ほど手軽じゃなくSNSもほぼなかった時代に、2日くらいで完売したそうなんです。それで、ドイツのPuma本社もワーって盛り上がって、Pumaとはそこから15年間コラボレーションをしたんです。長いですよね。ただその長さがね、ひとつ大きな勉強になりました。コラボを始めた当時はまだ、コンピューターでできることといえばイラレくらいで、セーブにも結構時間がかかる時代だったんですけど、そこからテクノロジーもどんどん進化して、今じゃほんとにすごいじゃないですか。できなかったことができるようになって。それと共にスニーカーのデザインも変わってきたんですけど、何と言うか、テクノロジーに支配されてるみたいだなって正直思うことがあったんですよ、2015年くらいまで。デザイナーたちはソフトウェアの進化に合わせてツールを動かすでしょ。するとそのデータ処理がいかにスムーズにいったかを体現するような、流線的でシャープなデザインが世界中のブランドから出て、それこそスニーカー戦争みたいになってね。デザイナーたちはある意味兵隊のように頑張って、どんどん新しいスニーカーを作っていたんですけど、それを目の当たりにして、なんだかそれがテクノロジーに支配されてるように感じたんですよね。
僕もそうやって同じようなものを作ることは、できなくもないんです。蓄積された経験もあるし。ただ、提案をしよう、と。それで、粘土でソールを作ってスキャニングしたんです。そうすると、コンピューターには取り込めるんですけど、ポリゴンというのが細かすぎて、処理するのが難しくて扱いづらい。細かくボコボコしている分、データ量が数倍多いので。ここで一つ分かるのが、ローテクとかオーガニックなほど、コンピューター向きではないって事ですよね。だからあえてそうすることによって、テクノロジーへのアンチテーゼではないけどね。僕らは、常に何かのメッセージや提案をしていくという立ち位置でいるんですが、この先スニーカーが進化するにあたって、それほど僕らは期待してないよ、みたいなメッセージではあったんです。マーケティングや新しい技術は次から次に出てきますけど、論理は変わらないので。このまま煽っていったら、スニーカーは空に飛んでいかなければいけない、みたいになっちゃいそうじゃないですか(笑)。でも結局、僕のやっていることって王道ではないから、逆に邪道で、スポーツができないようなスニーカーを提案することで、スニーカーカルチャーの違う一面を表現したいと。
- スポーツのためのスニーカーじゃなく、カルチャーと「提案」のためのスニーカーなんですね。三原さんは昔はレザーシューズを作っていたそうですが、そこからスニーカーを作り始めたきっかけは何だったんでしょう?
三原:昔はフットウェアってレザーシューズが最高峰で、John Lobbがあって…みたいなイメージだったんで、20代半ばにピッティ・ウオモに行ってみたんです。で、いろんなブースを見たんですけど、みんな同じこと言うんですよ。「クラフトマンシップ」、「ハンドメイド」、「オーセンティック」って。そこでふと考えたら、100年前の職人さんたちは、多分その当時の最先端技術として革を使って靴を作ってたわけじゃないですか。当時は道具も材料も限られてたからこういうものになって、それが時を経て、今では「オーセンティック」って言われる。確かに美しいし、クラシックでエレガントですけど、じゃあ20代の僕がこの先30年40年、この革靴の世界で続けられるかと思った時に、それより僕は、進化させたかったんですよね、靴を。それでPumaに電話したんです。
- そこから、Pumaとの長期コラボに至り、OGソールというわけですね。
三原:スニーカーやテクノロジーに精通することは大事なことではあったんですけど、その中にいたらいたで、また自分の中で違う意見も出てきて。テクノロジーの進歩だけではない世界もあるし、そことある程度剥離した、やっぱりカルチャーに対してのメッセージをちゃんと出したいな、と。 80年代、90年代っていうのは、ストリートファッションていう言葉さえなかったけど、そんな中でスラッシャーマガジンに出てくるブチ切れた格好がかっこいいなと思ってたり、エレクトリック系のアフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)とか、ああいうのを聴いてブレイクダンスしてて…。
- え、ブレイクダンスもできるんですか?
三原:やってましたよ。当時はディスコに行くと、壁にくっつけられたテレビモニターに『ソウル・トレイン』とか、『ビート・ストリート』とか、『ワイルド・スタイル』っていう映画が流れてて。『ビート・ストリート』は、東海岸のブレイクダンサーやグラフィティーアーティストたちの映画で、アフリカ・バンバータも出てくるんですけど、その映画の少年たちの格好がすごいかっこよくて。結構ピタッとしたトラックスーツに、バサっとジャケットを着てたりするんですけどね。僕当時小学生なんで、ディスコで無敵だったんですよ。だからディスコの人に「かっこいい!ちょうだい!」って言ったら、いいよって、ダビングしてくれたんですよ。
- ダビング!VHSですよね。ディスコに出入りする小学生って確かに無敵っぽいです。
三原:そう、VHSの時代ですよ。だから映像もすごいザラザラしてるんですけど、ザラザラの『ビート・ストリート』の映像を見て、ブレイクダンスとか、こういうのを練習して…、 (三原さん、軽く踊る)
- え!すご!上手い!
三原:そうですよ(笑)。結構やってたんで。東海岸はそういうね、パンツも細くてスマートな感じで。西海岸は逆にサーフ、スケート、パンクも混ざってごちゃっとしてて、パンツは太めで。さっき言った、ライダースに短パン、みたいなね。その頃レッチリ(Red Hot Chili Peppers)とかもでてきて、影響されまくってましたね。サーフィン雑誌でも、あるときデヴィッド・カーソン(David Carson)っていうアーティストのグラフィックを見たんですけど、サーフィンっておしゃれに見えるんだなって思ったのが、彼の作品からでした。すごいかっこよくて、若い頃は一生懸命真似して絵を描いてましたね。そういう西海岸ぽい、いろんなカルチャーが自由に混ざってるのにすごく憧れてましたし、ニューヨークのブラックカルチャーも。アフリカ・バンバータのインタビューに書いてあったんですけど、治安が悪いから、ギャングの抗争で10代の子たちが死ぬと。で、若い子達が殺し合わないように、グランドマスター・フラッシュ(Grandmaster Flash)、クール・ハーク(Kool Herc)、アフリカ・バンバータたちがブロックパーティーを開いて楽しくさせないといけないみたいな事が書いてあって、すげえな!って思ったんですよ。衝撃で。音楽も、ファッションも、スタイルも、色んなことがカテゴライズされたり形になる前の黎明期に、そういうカルチャーを知ったり体験することができたんで、いい時代を経験したなと思ってます。
だから自分がスニーカー作ったりしてるのはある意味、その時の恩返しみたいなところで、やっぱりカルチャーに対しては結構ね、敬意を持ってるんです。それがあって、この仕事もできてる気がしますし。
- そういう時代をお互い知った上での、クリスとのコラボレーションなわけですね。
三原:今回のコラボレーションは、in・stru(men-tal). っていうラインで、自分のコレクションとはちょっと形が違うんですけど、エッセンスやシルエットを共有しているんですね。音楽で言うところの歌モノとインストの違いというか。ダブとかインストゥルメンタルの場合はボーカルが入ってないんですけど、結構そのジャンルが好きで。音だけだったり、ビートとベースのラインだったり、そういうミニマムな感じっていうのができないかなと思って始めたんですよね。僕の場合、コレクションっていろんなものをあえて入れるような足し算もガンガンやるんで。引き算すればいいっていう概念ではなくて、それこそ何だっけ、ピコ太郎でしたっけ(笑)あれと一緒で、合わないものをくっつけるくらいの勢いでやっちゃうんで。
- ピコ太郎(笑)。三原さんの口から予想外の言葉がたくさん出てきます!
三原:そうでしょ(笑)。このラインをクリスが結構気に入ってくれたようで、 in・stru(men-tal). の元々のシルエットとか、実は結構工夫してるんですよ。なかなかかっこよくは言えないんですけどね、例えば1900年代前半のヨーロッパのクチュールメゾンとかで使われてたパターンがあって、その当時は、生地幅がシングル幅しかなくて、ロックミシンもないので、生地をバイアスに取ったりしてるんですね。いかに無駄なく、しかもふくよかなシルエットを出すかっていう時代だったのもあるんですよ。戦後数年までね。それを普通の洋服で表現したいなと思って、結構そういうパターンがあるんです。アームホールの形が変わってたり、後ろが直線的なんですけど、コクーンシルエットのような感じだったり。それが良い意味で、体型を選ばないんですよ。僕やクリスが子供の頃見てたアメリカの服っていうのはもっと平面的でゴツい感じだったんですが、それを少しソフトな感じで表現したいなというのもあって、今回のシャツも、そういうシルエットにしてみたりね。
- では今回のコラボは、in・stru(men-tal). の考え方を使いつつ、UNIONのグラフィックを落とし込んで三原さんがデザインしたという感じですか?シューズだけカラフルですね。
三原:そうですね。色はね、クリスからの希望も結構ありました。ブラック&ホワイトで、スニーカーだけマルチカラーでやってほしいと。僕がいちばんワガママ言ってやらせてもらったのは、このロゴの起用です。
UNION TOKYO:フロントマンですね。90年代からUNIONでよく使ってたオリジナルアイコンです。
三原:で、ルックは向こうで撮影してもらったんですけど、すごくハマっててよかったんですよ。
- 白黒のルックですよね。チカーノっぽいモデルの。
UNION TOKYO:服が白黒だったので、写真もブラック&ホワイトにしたそうです。
三原:カラッとした空気感も当たり前だけどすごい西海岸らしくて、色々と納得がいきました。チカーノっぽいモデルも良いでよね。いかにもって感じのファッションモデルじゃなく、このリアリティのあるキャスティングもすごく良かったし、やっぱり西海岸て撮れ高があっていいな~って社員とも話してました。
- コラボが形になるまではどのくらいの期間をかけたんでしょう?
UNION TOKYO:昨年クリスが日本に来た時に三原さんと会って、そこから徐々にコラボの話をしたりして、意外と1年くらいかかりましたよね。
三原:そうですね。クリスってね、やっぱり普通にかっこいいんですよ。その時もデニムのシャツを着てたんだけど、何ですかね、悪い意味じゃなく、流行りの服を着てても流行りの服に見えないんですよ。自分のものにしてるという感じで。
- 三原さんがコラボレーションをする時の、パートナー選びの決め手などは何ですか?
三原:コラボレーションというのは純粋であるべきだと思ってて、簡単に言うと、大きく二つに分けてるんです。一つは全くの未知な、ジャンル的にも全然違うものが一緒にやることで化学反応が起きるようなケース。わかりやすいのはそれこそPumaで、あの頃はファッションとスポーツが水と油みたいな感じだったんです。Pumaの他にも連絡したスポーツブランドはあったんだけど、ファッション用のスニーカーを作りたいって伝えると「うちはアスリートのためのブランドだからそういうことはやらないんです」みたいな返答でね。でもPumaは興味を持ってくれて。それってビジネス的にもわかりやすいじゃないですか。ファッションにもスポーツにもマーケティングのピラミッドがそれぞれあって、それをくっつけたところに新たなマーケットが見えてくるっていう。それを実現できたことで、ある意味ビッグバンみたいにダーンっとマーケットが広がったという経験があるので。要するに、普通じゃないコラボレーションの場合は、化学反応が起きて、新しいマーケットが見えるか、そこに興味が湧くか。
で、もう一つはただの友達です。戦略的にとかも一切考えず、この世界で一緒にいて、友達だから何かやってみようよ的なことですね。色眼鏡で見て声をかけてくる企業とかは気が乗らないけど、友達とならね、何か楽しいじゃん(笑)。ちょっと前のAmiriもそうだし、今回のUNIONとのコラボも、変な戦略は全くないです。クリスの作ったカルチャーに対してのリスペクトがすごくあるから、それに対して応えたいと思うし。そうじゃなくて本当に商業的な目的だけで自分たちのステータスが上がるからコラボレーションする、みたいなブランドって嫌じゃないですか。ブランド的にも、人間的にも、ねぇ?
- ですねぇ。話は変わりますが、三原さんはスケートボードもサーフィンやダンスと同じ頃に始めたんですか?
三原:そうですね。小学5年生かな。自分の人生の分岐点はどこでって言われたら、多分サーフィンとかスケート始めた11歳の時なんですよ。兄貴とよく歩いてた通りにサーフショップがあって、そこに大学生くらいのお兄ちゃんたちがワイワイ集まってるのを見てて、ちょっとこわいけど面白そうじゃないですか。で、まず兄貴が勇気を出してサーフィン始めて、あとから僕も始めたんですけど、福岡って夏は全然波が上がんないですよ、冬ばっかりで。ただサーフィンできない時も、大学生と夜遊んだり、いろんなとこ行ったり、やっぱりそれが子供の僕には刺激的で。今までテレビで『8時だよ全員集合』とか、夕方の再放送の『ウルトラマン』とかしか楽しみがなかった子供が、『ソウルトレイン』とか『ビート・ストリート』で黒人のファンクとかダンスとかを見たら、もう頭の中がいっぱいいっぱいになるんですよ。すごい情報量で楽しくて。夜、ディスコでそういうカルチャーを見て音楽を聴いて、お兄ちゃんお姉ちゃんたちに「これ何?」って聞くと教えてくれるんです。自分から情報を取りにいく、みたいなこともすごく楽しかったですから。
- 80年代って感じですね。そこからどうやって東京の美大生になったんですか?
三原:やっぱりみんな中学高校くらいから、将来のこと考えるじゃないですか。でも僕は考えたくなくて。プロサーファーを目指すか悩んだ時があったんですけど、プロになっても飯食えねえやって思って。そういうサーファーをいっぱい見てきたのもあって。サーフィンじゃ食えないし、音楽もね、バンドやったりもしてたけど、福岡って今ほどシーンが成熟してなかったので。かと言ってサラリーマンにはなれないなと思ってたら親に、「福岡におってもダメよ」って言われたんです。多分うちの親は九州から東京に出たかったんでしょうけど、特に女性は上京するより結婚して子育てした方がいいと言われてた時代なので。でも母親は寺山修司だったり、美輪明宏を見てた世代だったので、思うところがあったんでしょうね。おじいちゃんには、芸術家を目指すって言ったら大反対されましたけど、親は「福岡におってもムーブメントは起きん」って。「ムーブメント」って言葉自体、アングラ世界の世代っぽいでしょ(笑)。
- 学生運動世代っていう感じですね。かっこいい。
三原:そう。だからやっぱりすごく悔しかったんでしょうね。それで背中を押してくれたんです。美術大学に行って勉強をするっていうより、福岡にいても同世代でアートやデザインが好きな人たちに会う機会も少ないから、実際そういうのがウジャウジャいるようなところに行ってみたいと。当時はファッションデザインとか全く考えてなくて。それで、二浪して多摩美に行ったんです。二浪させてくれた親にも感謝してますね。で、やっぱりウジャウジャだったんですよ、天才が。だから僕の同級生みんなすごいですよ。特にベビーブーム真っ盛りの団塊ジュニア世代なんで、倍率50倍とか70倍とかの世界。二浪くらいが当たり前で、現役で入ると技術力が追いつかなくて苦労するって言われてましたね。大学は本当に才能がひしめき合ってたんで、それはすごく良かったです。
- そこからファッションと言うか、靴のデザインに興味を持ったのはどうしてですか?
三原:大学に入って、まず行ったことのない海外に行こうと思ったんです。で、アメリカじゃなくてロンドンに行ったんですよ。ロンドンのクラブシーンを見てみたかったというのもあるし、さっき言ったChristopher Nemethみたいなファッションもアートも面白そうで。ちょうどダミアン・ハースト(Damien Hirst)が出てきた頃だったし。チャップマンブラザーズ(Jake & Dinos Chapman)の展示もやってたんですよ。あのかなり挑発的なすごいやつ。そういうコンセプチュアルアートで人気の作家が出てきたり、アートが本当に変わってきている時だったんです。
で、昔からずっと思ってた事があるんですね。アートと人というのは隔たりがあると。子供の時に美術館とかに行って、作品に触ろうとすると怒られるじゃないですか。彫刻も撫でたり乗ったりできないし。で、変な反逆精神じゃないけど、浪人の時から、アートと人というのは調和できないのか、っていうことを思ってたんです。要するに、アートが偉くて人が低いみたいな世界じゃなく、アートというのは日常にあって、別に使って捨ててもいいじゃないかという世界ができないのかと。誰の日常にでもアートがあるような調和した世界ができるんじゃないか、みたいなことでね。
アートというのは一体何かというと、人が考えることを強要できる、強制できる力があることであって、ともすれば、そういう力があるものであれば、別に建築でも音楽でもファッションでも、全てにおいて同じで、アートと区別する必要はないんじゃないか、って。そういうことから、まず象徴として靴を作り出したんです。人が使って捨てる物のイコンとして。それと、子供の時からいろんなものを作ってきたけど、靴の作り方だけは一切分からなかったんですよね。今ならインターネットで検索できるだろうけど、当時はなんで先が丸くなるんだ、かかとが固くなるんだって分からなかったんで。それで、色んな意味でイコンというか象徴として靴を作り始めたんですよ。まさかそれを職業にしようとは思わなかったんですけど、やっぱりどっぷりハマって、ミイラ取りがミイラになるみたいな感じで、楽しくなっちゃってね。で、結果的にその受け皿がファッションの世界だったっていう。だから今も変わらないのは、人と芸術を調和させたいっていう概念のもとで、洋服もスニーカーも作っているってことですね。
- 服は、いつ頃から作り始めたんですか?
三原:99年頃には、革パンを作ったりはしてました。あと、きっかけ的には、ファッションデザイナーとシューズデザイナーの社会的地位の違いみたいなのもあったんですよ。特に日本だと、シューズデザイナーの方が下に見られてる感じがあって。で、洋服のデザイナーがシューズまでデザインすることもあるんだから、シューズデザイナーが洋服までやってもいいっていう世界を作ればいいやと思って、始めたんです。その頃は、ずっとヨーロッパでショーをやることになるとは思ってなかったですが。自分が好きな革パンを作ってるくらいだったんですけど、だんだん加速して、加速して。
- 加速してパリ、みたいな(笑)。
三原:それもね、僕は積極的な面と消極的な面が極端で、最初はヨーロッパとか行きたくないくらいだったんですよ、お金もかかるし。だけどPumaが売れて、MIHARA YASUHIROっていう名前が一人歩きして、インターネットもそんなに発達してないから、ミハラヤスヒロって一体何?ってことでPumaに問い合わせがずっと来てたそうなんです。特に海外では人の名前ってことさえわからないから、神社仏閣の名前だとか、「とらや」みたいに「みはらや」みたいなトンチンカンな記事が出たりとかして(笑)。それも逆に面白かったんですけど、ちゃんと世界にブランドとして見せた方がいいって周りからすごい言われて。それで当時、Pumaがピッティに出してたし、グローバルミーティングもフィレンツェだったので、関係者が来やすいようにミラノコレクションから始めたんです。今はパリでやってますが、こんなに続くとは…。
- 東京でショーをやった時はコスプレ?されてましたよね。2018年の神宮外苑のショーで、三原さんがオレンジの作業着を着て交通整理してるのを見てすごく楽しかったです。何年か前の浅草でも警備服で…(笑)。パリではやらないんですか?
三原:(笑)パリではさすがにやってないです。最近は、かっこつけようっていうアレなので(笑)。でもあのコスプレは楽しかったですね。日本でショーをやるときには、とにかく、なんだろう、いわゆるデザイナー像っていうの捨てなきゃと思ったんですよ、なぜか(笑)。あと変な話、僕が何をしようが、ブランドが崩れることはないという自負のもとやっているところがあるんですよね。コロナ禍とかに、ファッションで世の中を明るくとか色んなところで言われてましたけど、僕はそんなたいそうな事思ってなく。ただ、目の前の人たちを笑わせることはできるかな、と。それこそ、親に言われた「ムーブメント」っていうものを考えた時に、かっこいいことだけじゃなく、そういうこともできた方がいいなって。やっぱり寺山修司の天井桟敷とかも、舞台演出の中で信じられないことが起きるんですよ。つい最近だったら、中村座の歌舞伎で、古い話かと思ったらいきなりパトカーが舞台に出てきたりとかね。そういうのを見た時に、ファッションって遅れてるな、と思ったりするんですよ。で、最小限の労力で最大限の効果を得るためには、僕が道化になるのが一番いいなと思って、それでああいうことをやっちゃうんですよね(笑)。あの外苑でやったショーでは、当時感じた色々な皮肉を込めた細かいギミックも考えたりしたんですよ。攻めすぎて、周りからやめてくださいって言われて諦めた部分もあったんですけど(笑)。
- でもその皮肉とか反骨精神を、笑える形でショーにしたのはすごいです。
三原:ブランドを長年やってると時々ね、「日本のファッションシーンにおいて、将来何か願っていることありますか?」とか聞かれるんですけど、僕は正直そういう事なんにも考えてないんです(笑)。でも、健全になれるんじゃないかなとは思ってますよ。今やファッションて大きくなりすぎたというか、もう巨大産業なわけですよね。その中で、大企業が力を持っていくというのは必然的な事。それが偉そうにしているのは嫌ですけどね。同時に小さいビジネスというのも必要だし、きっとなくならない。クリエイションと商業って色んなバランスがありますけど、ビジネス自体のやり方も、クリエイティブに考えられると思うんです。物事には何でも一定の要素や理由や影響があるから、それをクリエイティブに捉えられるのが、ファッションビジネスかなとも思うんです。ファッションには流通という決まったフォーマットがあるので、みんなそれから新しいことを考えないようにはなっているんですけど、ただそこも、ちょっとずつ輪切りにして一個一個見直すと、クリエイティブにすべき要素というのは多分いっぱいあるんですよ。僕はデザイナーであり経営者でもあるので、そういうことを考えるのも大事だと思うんで。策士ですよ(笑)。
- (笑)さすが経営者です。安心します。それと最近、DJとしてもお見かけするんですが、昔からやってたんですか?
三原:実は長いんですよ。ちょっとやめてたんですけどね。レコードを回して、Technicsのミキサーとかを使うようになったのが16の後半か17歳で。その頃ちょうど、ハウスミュージックが出てきたんです。1、2年ぶりにディスコに行ってみようと思ったら、ディスコが全部クラブになってて、ファンクみたいなのが流れてるかなと思ったら、ハウスっていうのになってたんですよ。友達に「やっちゃん、これからはハウスやけん」って言われて、「ハウスか!」って(笑)。で、そこから四つ打ち、ガレージハウス、ゴスペル調のまで聴いて、かっこいいやん!やってみようって。最初は何も持ってないから、ドラムマシーンをちょっと道で手に入れて、少しずつスキルをつけて…。
- ストリート感すごいですね(笑)。
三原:そう、もう完全にストリート(笑)。そこからキーボードとかシーケンサーとかもどうにか入手して、当時は全部ミディっていうジャックで繋いでいくんだけど、それも覚えて、ヒップホップの人たちどうやってんだとか、『サウンド&レコーディング』っていう音楽雑誌に載ってる色んな繋ぎ方を勉強して、ハウスを作ってたんです。ただ、当時はサンプリングマシーンが20万くらいして買えなかったから、歌を入れたりとかサンプリングができなくて、とにかくキーボードの音をいじくって作ってたのが、テクノハウスっていう時代で。それがだんだんテクノっていう形になってきて、打ち込みもやったりするけど、レコードもかけて、それこそ、リル・ルイス(Lil Louis)みたいなドープなハウスとかかけてたんですよ。そしたら、やっぱり、その時代にこんな事やってる人間って少数だったんで、インターネットもメールもない時代なのに、なぜか繋がっていくんですよ。ケン・イシイとか、(石野)卓球くんとかみんな仲良くなって。今では、みんなレジェンドになってるけど。
- え、すっご…。
三原:卓球くんは、当時僕の中では電気グルーヴじゃなくて、ナゴムレコードっていうレコード会社の人生(ZIN-SÄY!)っていうバンドにいたイメージなんですよね。ケン・イシイは、僕がやめるきっかけにもなったんですけど、その当時、僕も結構デモテープとか作って、ヨーロッパのレーベルとかに送ってたんですよ。カセットテープを。ただやっぱりなかなか引っかかんなくて。そしたらケン・イシイが向こうのレーベルから『Garden On The Palm』っていうアルバムを出したんですね。聴いてみたら、すっごくおしゃれというか、今まで聴いたことのない音色で、今でこそインテリジェンステクノって言われるジャンルの、踊らない系のね。それを聴いた時に、あぁ…、やめようって(笑)。
- (笑)すんごいしっかりやってたんですね。
三原:最初はハウスから入ったんですけど、僕も結構アンビエント系で、知れば知るほど実験的な方に行くんですよ。エクスペリメンタル系に。やっぱり若い時って、アングラに行きたがるんですよね(笑)。で、誰も聴いたことのない音楽をって、よりニッチな世界をどんどんどんどん突き詰めていくと、だんだんビートすらもなくなってね。電子音だけのピー、ピー、ピー、ピピピーみたいな曲ばっかり作るようになっちゃって。もうね、帰ってこれなくなっちゃったんですよ(笑)。あ、これもう終わりだなと思ってた時に、2人が有名になってきて、もうケン・イシイとかに任せようと思って(笑)。
- (笑)すごいです、としか言えません。それを聴いたら、最近の三原さんのDJをよりありがたく聴けます。
三原:何でまた始めたかっていうと、50を過ぎてね、ふと、このままみんな棺桶に行くのかなって思ったら、やっぱ、老人ホーム or テクノっていう…(笑)。
- 老人ホーム or テクノはパワーワードです(笑)。
三原:ほら、今の若い子たちは人数少ないじゃないですか。で、僕らの世代がそのまま年取ってきて、いかに楽しい50代、60代のシーンを作っていくべきかって思うようになっちゃって。ファッションシーンでも、20代、30代の世界に無理して付き合ってる部分もあるんですよ、正直。かたや、この50代、60代のカルチャーシーンはこのまま衰退していっていいのかって自分に問いかけた時に、いやダメだ、と思ったんですよね。
- 昔若者だった大人たちも、楽しみは欲しいですよね。
三原:30代、40代は子育てとかして、クラブとかに行かなくなった人たちも、50代から子供が自立してったり、離婚したみたいな人もいるから、時間の使い方変わるじゃないですか。だから、よし、DJやろうと思って。こういう例をいっぱい作っていけば、もう棺桶に半分足を突っ込んでいるところまで行ったとしても、楽しい人生にできるんじゃないかって思ったんです。70、80になってもかっこいいシーンを作れるんじゃないかなって。アメリカのジャズシーンなんて、50歳くらいまでベイビーって呼ばれてるそうなんですよ。60、70、80って、上の層が厚いんで。
- 一生現役って言いますよね。
三原:そう。ジャズの世界は、一生現役なんですよ。だから最近はね、暇さえあればDJのネタをディグってます。それとね、昔の曲ってレコードも生演奏のも結構あるんで、それを取り込んでBPMをきれいに揃え直したりもしてます。80年代のハウスとかって、結構シーケンサーが不安定だから、曲の前半と後半でBPMがずれてたりもするんで、それを直して少しアレンジ入れたりとか。
UNION TOKYO:もうアーティストですね…。
- 音も作って、服も作って、サーフィンして、スケボーもして…、すごい楽しそうですね(笑)。
三原:楽しいですよめちゃくちゃ。昨日はサーフィンしたあとにスケボーもしました。
- 動きが20代です(笑)。
UNION TOKYO:三原さん、ご自宅にスケートランプありませんでしたか?
三原:はい、今はスタジオにしちゃいましたけどね。小さいボウルがありましたよ。あれはね、以前南平台に住んでた時、一人で夜中にスケボーしてたんですよ。そしたら、ぐわーってベンツのゲレンデが横に停まってきて、見たら同い年の知り合いだったんですけど、「あれ?やっちゃんまだスケボーなんかやってんの?」言われたんですよ。そいつは助手席にいかにもって感じの派手な女の子乗せてて。それを見た時に、すっげえムカついたんですよ(笑)。まるでこう、スケボーやってることをすごく下に見られた感じで。だからもううちにスケートのボウル作ってね(笑)。まあ、こけて頭を打っちゃうのも嫌なんで、サーフスケートって感じで、小さくてユルいのだったんですが。そうそう(笑)。
- すごすぎます(笑)。LAでやるこのコラボのローンチイベントに三原さんも行って、DJされるんですよね?
UNION TOKYO:クリスもやりますよ。
三原:そうなんですよ。クリスどんな曲かけるのかな~?この前彼がドーバー (DOVER STREET MARKET GINZA)のOPEN HOUSEでDJした時は、懐かしいのから新しいハウス、ちょっとヒップホップやジャズ系も入れたミックスで、結構幅広かったんですよね。そういえば、ラリー・レヴァン(Larry Levan)っていうレジェンドDJがいて、なぜか福岡のイベントにも何回か来てたんです。本場のDJってどんなだろうって聴きに行ったんですけど、DJってみんなオシャレにBPM合わせてきれいに繋ぐと思ったら、そんなのなくて、もう、ぶっ込み系。曲の上にぶち込んでくるんですよ(笑)。いかにシームレスKNOWに繋ぐかって考えが一気に崩れるくらい結構ぶち込みで、俺たち考えすぎだなって(笑)。 今回はLAで何かけようかなって色々迷ってるんですけど、今またニューヨリカン・ソウル(Nuyorican Soul)のやつで、BPMを直したい曲があるのを思い出しちゃいました。
RELEASE DATE
2026/8/7 (FRI) *LA
2026/8/8 (SAT)*JAPAN
RELEASE STORE
UNION TOKYO ONLINE STORE:9AM JST
UNION TOKYO/OSAKA STORE OPENING HOUR:11AM JST
※下記、Maison MIHARA YASUHIRO 各店でも販売予定
Maison MIHARA YASUHIRO JINGUMAE BUILDING / ISETAN MENS SHINJUKU / Maison (MY) Labo. / OSAKA / Online Store
※コラボレーション商品を実店舗でご購入のお客様にはブランド限定カラーのNOVELTY TOTE BAGを配布予定。(限定数につき在庫が無くなり次第終了とさせて頂きます)
取材・編集:Saori Ohara @saorisaurus
撮影:UNION TOKYO / JO
2026年8月、in・stru(men-tal). MIHARAYASUHIROとUNIONのコラボレーションコレクションがローンチします。リラックス感のあるモノトーンベースのアパレルラインナップと、MMYを象徴するオリジナルソールを携えたスニーカーから成るユニセックスコレクションは、LA、東京、大阪のUNIONなどで世界同時発売。UNIONオーナー、クリス・ギブス(Chris Gibbs)の友人である三原康裕さんのアトリエにお邪魔し、コラボレーションについて、三原さんのキャリアについて、サーフィンやスケートボードや音楽について、笑いながら伺っていると、気づけば2時間経っていました。三原さんらしい思考や意外な一面を通して、両ブランドとこのコラボレーションの魅力が、少しでも深く届きますように。
- まずはUNIONについての印象や、クリスとのつながりについて教えてください。
三原: UNIONはカルチャーにとってもすごく重要なお店だと思います。アメリカの印象って、世代によって違うと思うんですよね。少し上の世代の方々からすると、アメリカと言えばいわゆる昔の『Popeye』のイメージとか、アメカジとか。もちろんそれもあるんですが、僕にとってはどちらかというと、小学生の時に出会ったヒップホップカルチャーがあるんです。僕が小学校からヒップホップだったって初耳だと思うんですけど(笑)、本当に83年頃はそういう感じで。11歳の時にサーフィンを始めて、そこから子供なのにディスコに行ったりしてたんですが、そう、クラブじゃなくて当時はディスコなんですよね。そこでブレイクダンスだったり、ニューヨークのブラックカルチャーだったり、西海岸の明るい感じのサーフ、スケートカルチャーに出会って。そういうカルチャーをドンズバで体現してるのがUNIONだなって思います。クリスって何歳?
UNION TOKYO:クリスは確か52歳だったと思います。
三原:でしょ?ほら、同じ世代なんです。僕も54歳。だから、当時の僕らの先輩たちってこうだったな、と思うような感じが形になったようなお店っていうイメージがありますね。特にUNIONはLAのイメージが強いんですが、僕、西海岸って結構憧れで、行ったことはあるけど実際に浸ったことがないというか。小学生でサーフィン始めたけど、サーファーっぽい格好は嫌だったんですよ。それこそサーフマガジンを開くと、ジェリー・ロペス(Gerry Lopez)風のいわゆるサーファーっぽい写真がいっぱい載ってるんだけど、それとは別に、たまにちょっと尖った人たちが出てくるんです。それがサンタクルーズとかマリブとかの、サーフとスケートと音楽とアートがぐちゃぐちゃになったような感じで。スポーツのようでありながら、カルチャーとしてオルタネイティブな感じがあって、それに憧れてたんです。今でこそUNIONって老舗的な扱いですが、僕的にはオルタネイティブが詰まった場所、みたいな印象なんですよね。
- クリスと出会ったきっかけは何ですか?
三原: 昔からクリスがバイヤーとして来てくれてはいたんだけど、ギュッとなったのは最近で。
UNION TOKYO:クリスは三原さんの靴ももちろん好きですが、三原さんの服に対しても、すごく熱を持ってるんですよね。
三原: ここ何年かでより距離が近くなりましたね。結局、肩の力を抜いたようなニュートラルな服が好き、みたいな話をクリスとしたんですよね。僕らが若い頃ってそういう服しかなかったし。ホントのコト言うと、僕、モードってちょっと変だなって思ってるんですよ(笑)。自分の世界みたいなのもあるけど、僕ちょっとこう…斜めから見てるんで。ファッション業界に30年くらいいるんですけど、よく思うんですよ。こそばゆい、みたいな。多分ね、アンチテーゼがずっとあるからで、だから逆にこの職業も続けられてるんですけど。 それこそ僕が16歳の時、福岡のクラブにいたロンドンファッションのやつを見てすげーおしゃれだなって思ったんですね。Christopher Nemethとか着てる感じの。それまではロンドンファッション=(イコール)パンクと思ってたんですけど、そこに何かアートみたいな要素もあって。かたや僕なんて、アロハシャツにライダース着て、短パンにNikeのジョーダンファースト履いてるみたいな、「イメージの西海岸」ていう感じだったから、そのロンドンスタイルがすごいおしゃれだなーって。ファッションって、多分結構そういう身近で素朴なモノとか感覚だと思うんですよね。でもモードについてはアンチテーゼを感じてしまうというか、やっぱりちょっと…ちょっとこそばゆいんですよ(笑)。
- (笑)モードはカッコつけてる、みたいな事ですか?
三原:というか、モードって自然か自然じゃないかっていうと、反自然的な行為を人間に課す部分もあるじゃないですか。例えばハイヒールなんてその極致で。自然的なことだったらビーサンでいいや、みたいになっちゃう。だからそういう点で、狂気と戯れて、理性に背いてる感じは、モードってすっごく興味深いし、面白いんですけどね。
- 三原さんて、アートからのモード、みたいな印象があったんですが、根本はストリートなんですね。
三原:僕が小学校の時って、MA1にチノパン履いて、スニーカーがちょっとおしゃれだとK-Swissの白とかで。Reebokが出始めた頃なんですよ、まだ。Nikeでも、量販店に並んでるNikeが嫌で。
UNION TOKYO:並行輸入の買ってましたよね。量販だと色がヤバくて。
三原:そう!並行輸入。量販店には変な色しかないから、アメリカからのやつが欲しくて。ジョーダンファーストなんて飛びついて買いに行ってましたよ。当時2万8千円くらいで高かったんですけど、小学生の自分の貯金を、もうかき集めてね、買った思い出があるんですよ。あと靴紐も。ファットレースが日本にはなくて。ニューヨークに行った人に頼んで買ってきてもらったんですけど。当時1ドルが360円だったんですよ。知らないでしょ?
- 1ドル360円!!てことは、たいそう高級なシューレースをお召しに…。
三原:そうですよ~。ちょっとスニーカーの話になっちゃうけど、当時は製品が今みたいに良くなかったから、こうちょっとね、(ソールの中央が上に反ってアーチ状に)内反りするんですよ。キュって。それがね、逆にかっこよくて。そういうの履いてるから、80年代のブレイクダンサーとか、RUN DMCの足元も、みんな(踵からつま先まで)ペタッてなってるんです。けど、日本製のやつはちゃんとね、前が(上に)反ってるんですよ。それがちょっとイマイチで。 パフォーマンスシューズだと前が反ってる方が絶対いいんだろうけど、カルチャー目線だと、なんかね、ペタッてして欲しいんですよ。だから僕のOGソールは結構ギリギリの線を攻めて、ペタッを目指してるんです。最近で言うと、ジェリー・ロレンゾ(Jerry Lorenzo)のFear of Godぐらいじゃないですかね。ペタッをペタッとしてちゃんと捉えてて、いいねって思います。当時の雰囲気が出ててね、履くとかっこいいんですよ。
- 三原さんのソールのお話が出たところで、あの粘土のようなかたちの誕生秘話などあれば教えてください。
三原:あれはですね、1999年頃からPumaでスニーカーのデザインに携わるようになって、2000年にPumaとの最初のコラボレーションシューズを発売したんですけど、インターネットも今ほど手軽じゃなくSNSもほぼなかった時代に、2日くらいで完売したそうなんです。それで、ドイツのPuma本社もワーって盛り上がって、Pumaとはそこから15年間コラボレーションをしたんです。長いですよね。ただその長さがね、ひとつ大きな勉強になりました。コラボを始めた当時はまだ、コンピューターでできることといえばイラレくらいで、セーブにも結構時間がかかる時代だったんですけど、そこからテクノロジーもどんどん進化して、今じゃほんとにすごいじゃないですか。できなかったことができるようになって。それと共にスニーカーのデザインも変わってきたんですけど、何と言うか、テクノロジーに支配されてるみたいだなって正直思うことがあったんですよ、2015年くらいまで。デザイナーたちはソフトウェアの進化に合わせてツールを動かすでしょ。するとそのデータ処理がいかにスムーズにいったかを体現するような、流線的でシャープなデザインが世界中のブランドから出て、それこそスニーカー戦争みたいになってね。デザイナーたちはある意味兵隊のように頑張って、どんどん新しいスニーカーを作っていたんですけど、それを目の当たりにして、なんだかそれがテクノロジーに支配されてるように感じたんですよね。
僕もそうやって同じようなものを作ることは、できなくもないんです。蓄積された経験もあるし。ただ、提案をしよう、と。それで、粘土でソールを作ってスキャニングしたんです。そうすると、コンピューターには取り込めるんですけど、ポリゴンというのが細かすぎて、処理するのが難しくて扱いづらい。細かくボコボコしている分、データ量が数倍多いので。ここで一つ分かるのが、ローテクとかオーガニックなほど、コンピューター向きではないって事ですよね。だからあえてそうすることによって、テクノロジーへのアンチテーゼではないけどね。僕らは、常に何かのメッセージや提案をしていくという立ち位置でいるんですが、この先スニーカーが進化するにあたって、それほど僕らは期待してないよ、みたいなメッセージではあったんです。マーケティングや新しい技術は次から次に出てきますけど、論理は変わらないので。このまま煽っていったら、スニーカーは空に飛んでいかなければいけない、みたいになっちゃいそうじゃないですか(笑)。でも結局、僕のやっていることって王道ではないから、逆に邪道で、スポーツができないようなスニーカーを提案することで、スニーカーカルチャーの違う一面を表現したいと。
- スポーツのためのスニーカーじゃなく、カルチャーと「提案」のためのスニーカーなんですね。三原さんは昔はレザーシューズを作っていたそうですが、そこからスニーカーを作り始めたきっかけは何だったんでしょう?
三原:昔はフットウェアってレザーシューズが最高峰で、John Lobbがあって…みたいなイメージだったんで、20代半ばにピッティ・ウオモに行ってみたんです。で、いろんなブースを見たんですけど、みんな同じこと言うんですよ。「クラフトマンシップ」、「ハンドメイド」、「オーセンティック」って。そこでふと考えたら、100年前の職人さんたちは、多分その当時の最先端技術として革を使って靴を作ってたわけじゃないですか。当時は道具も材料も限られてたからこういうものになって、それが時を経て、今では「オーセンティック」って言われる。確かに美しいし、クラシックでエレガントですけど、じゃあ20代の僕がこの先30年40年、この革靴の世界で続けられるかと思った時に、それより僕は、進化させたかったんですよね、靴を。それでPumaに電話したんです。
- そこから、Pumaとの長期コラボに至り、OGソールというわけですね。
三原:スニーカーやテクノロジーに精通することは大事なことではあったんですけど、その中にいたらいたで、また自分の中で違う意見も出てきて。テクノロジーの進歩だけではない世界もあるし、そことある程度剥離した、やっぱりカルチャーに対してのメッセージをちゃんと出したいな、と。 80年代、90年代っていうのは、ストリートファッションていう言葉さえなかったけど、そんな中でスラッシャーマガジンに出てくるブチ切れた格好がかっこいいなと思ってたり、エレクトリック系のアフリカ・バンバータ(Afrika Bambaataa)とか、ああいうのを聴いてブレイクダンスしてて…。
- え、ブレイクダンスもできるんですか?
三原:やってましたよ。当時はディスコに行くと、壁にくっつけられたテレビモニターに『ソウル・トレイン』とか、『ビート・ストリート』とか、『ワイルド・スタイル』っていう映画が流れてて。『ビート・ストリート』は、東海岸のブレイクダンサーやグラフィティーアーティストたちの映画で、アフリカ・バンバータも出てくるんですけど、その映画の少年たちの格好がすごいかっこよくて。結構ピタッとしたトラックスーツに、バサっとジャケットを着てたりするんですけどね。僕当時小学生なんで、ディスコで無敵だったんですよ。だからディスコの人に「かっこいい!ちょうだい!」って言ったら、いいよって、ダビングしてくれたんですよ。
- ダビング!VHSですよね。ディスコに出入りする小学生って確かに無敵っぽいです。
三原:そう、VHSの時代ですよ。だから映像もすごいザラザラしてるんですけど、ザラザラの『ビート・ストリート』の映像を見て、ブレイクダンスとか、こういうのを練習して…、 (三原さん、軽く踊る)
- え!すご!上手い!
三原:そうですよ(笑)。結構やってたんで。東海岸はそういうね、パンツも細くてスマートな感じで。西海岸は逆にサーフ、スケート、パンクも混ざってごちゃっとしてて、パンツは太めで。さっき言った、ライダースに短パン、みたいなね。その頃レッチリ(Red Hot Chili Peppers)とかもでてきて、影響されまくってましたね。サーフィン雑誌でも、あるときデヴィッド・カーソン(David Carson)っていうアーティストのグラフィックを見たんですけど、サーフィンっておしゃれに見えるんだなって思ったのが、彼の作品からでした。すごいかっこよくて、若い頃は一生懸命真似して絵を描いてましたね。そういう西海岸ぽい、いろんなカルチャーが自由に混ざってるのにすごく憧れてましたし、ニューヨークのブラックカルチャーも。アフリカ・バンバータのインタビューに書いてあったんですけど、治安が悪いから、ギャングの抗争で10代の子たちが死ぬと。で、若い子達が殺し合わないように、グランドマスター・フラッシュ(Grandmaster Flash)、クール・ハーク(Kool Herc)、アフリカ・バンバータたちがブロックパーティーを開いて楽しくさせないといけないみたいな事が書いてあって、すげえな!って思ったんですよ。衝撃で。音楽も、ファッションも、スタイルも、色んなことがカテゴライズされたり形になる前の黎明期に、そういうカルチャーを知ったり体験することができたんで、いい時代を経験したなと思ってます。
だから自分がスニーカー作ったりしてるのはある意味、その時の恩返しみたいなところで、やっぱりカルチャーに対しては結構ね、敬意を持ってるんです。それがあって、この仕事もできてる気がしますし。
- そういう時代をお互い知った上での、クリスとのコラボレーションなわけですね。
三原:今回のコラボレーションは、in・stru(men-tal). っていうラインで、自分のコレクションとはちょっと形が違うんですけど、エッセンスやシルエットを共有しているんですね。音楽で言うところの歌モノとインストの違いというか。ダブとかインストゥルメンタルの場合はボーカルが入ってないんですけど、結構そのジャンルが好きで。音だけだったり、ビートとベースのラインだったり、そういうミニマムな感じっていうのができないかなと思って始めたんですよね。僕の場合、コレクションっていろんなものをあえて入れるような足し算もガンガンやるんで。引き算すればいいっていう概念ではなくて、それこそ何だっけ、ピコ太郎でしたっけ(笑)あれと一緒で、合わないものをくっつけるくらいの勢いでやっちゃうんで。
- ピコ太郎(笑)。三原さんの口から予想外の言葉がたくさん出てきます!
三原:そうでしょ(笑)。このラインをクリスが結構気に入ってくれたようで、 in・stru(men-tal). の元々のシルエットとか、実は結構工夫してるんですよ。なかなかかっこよくは言えないんですけどね、例えば1900年代前半のヨーロッパのクチュールメゾンとかで使われてたパターンがあって、その当時は、生地幅がシングル幅しかなくて、ロックミシンもないので、生地をバイアスに取ったりしてるんですね。いかに無駄なく、しかもふくよかなシルエットを出すかっていう時代だったのもあるんですよ。戦後数年までね。それを普通の洋服で表現したいなと思って、結構そういうパターンがあるんです。アームホールの形が変わってたり、後ろが直線的なんですけど、コクーンシルエットのような感じだったり。それが良い意味で、体型を選ばないんですよ。僕やクリスが子供の頃見てたアメリカの服っていうのはもっと平面的でゴツい感じだったんですが、それを少しソフトな感じで表現したいなというのもあって、今回のシャツも、そういうシルエットにしてみたりね。
- では今回のコラボは、in・stru(men-tal). の考え方を使いつつ、UNIONのグラフィックを落とし込んで三原さんがデザインしたという感じですか?シューズだけカラフルですね。
三原:そうですね。色はね、クリスからの希望も結構ありました。ブラック&ホワイトで、スニーカーだけマルチカラーでやってほしいと。僕がいちばんワガママ言ってやらせてもらったのは、このロゴの起用です。
UNION TOKYO:フロントマンですね。90年代からUNIONでよく使ってたオリジナルアイコンです。
三原:で、ルックは向こうで撮影してもらったんですけど、すごくハマっててよかったんですよ。
- 白黒のルックですよね。チカーノっぽいモデルの。
UNION TOKYO:服が白黒だったので、写真もブラック&ホワイトにしたそうです。
三原:カラッとした空気感も当たり前だけどすごい西海岸らしくて、色々と納得がいきました。チカーノっぽいモデルも良いでよね。いかにもって感じのファッションモデルじゃなく、このリアリティのあるキャスティングもすごく良かったし、やっぱり西海岸て撮れ高があっていいな~って社員とも話してました。
- コラボが形になるまではどのくらいの期間をかけたんでしょう?
UNION TOKYO:昨年クリスが日本に来た時に三原さんと会って、そこから徐々にコラボの話をしたりして、意外と1年くらいかかりましたよね。
三原:そうですね。クリスってね、やっぱり普通にかっこいいんですよ。その時もデニムのシャツを着てたんだけど、何ですかね、悪い意味じゃなく、流行りの服を着てても流行りの服に見えないんですよ。自分のものにしてるという感じで。
- 三原さんがコラボレーションをする時の、パートナー選びの決め手などは何ですか?
三原:コラボレーションというのは純粋であるべきだと思ってて、簡単に言うと、大きく二つに分けてるんです。一つは全くの未知な、ジャンル的にも全然違うものが一緒にやることで化学反応が起きるようなケース。わかりやすいのはそれこそPumaで、あの頃はファッションとスポーツが水と油みたいな感じだったんです。Pumaの他にも連絡したスポーツブランドはあったんだけど、ファッション用のスニーカーを作りたいって伝えると「うちはアスリートのためのブランドだからそういうことはやらないんです」みたいな返答でね。でもPumaは興味を持ってくれて。それってビジネス的にもわかりやすいじゃないですか。ファッションにもスポーツにもマーケティングのピラミッドがそれぞれあって、それをくっつけたところに新たなマーケットが見えてくるっていう。それを実現できたことで、ある意味ビッグバンみたいにダーンっとマーケットが広がったという経験があるので。要するに、普通じゃないコラボレーションの場合は、化学反応が起きて、新しいマーケットが見えるか、そこに興味が湧くか。
で、もう一つはただの友達です。戦略的にとかも一切考えず、この世界で一緒にいて、友達だから何かやってみようよ的なことですね。色眼鏡で見て声をかけてくる企業とかは気が乗らないけど、友達とならね、何か楽しいじゃん(笑)。ちょっと前のAmiriもそうだし、今回のUNIONとのコラボも、変な戦略は全くないです。クリスの作ったカルチャーに対してのリスペクトがすごくあるから、それに対して応えたいと思うし。そうじゃなくて本当に商業的な目的だけで自分たちのステータスが上がるからコラボレーションする、みたいなブランドって嫌じゃないですか。ブランド的にも、人間的にも、ねぇ?
- ですねぇ。話は変わりますが、三原さんはスケートボードもサーフィンやダンスと同じ頃に始めたんですか?
三原:そうですね。小学5年生かな。自分の人生の分岐点はどこでって言われたら、多分サーフィンとかスケート始めた11歳の時なんですよ。兄貴とよく歩いてた通りにサーフショップがあって、そこに大学生くらいのお兄ちゃんたちがワイワイ集まってるのを見てて、ちょっとこわいけど面白そうじゃないですか。で、まず兄貴が勇気を出してサーフィン始めて、あとから僕も始めたんですけど、福岡って夏は全然波が上がんないですよ、冬ばっかりで。ただサーフィンできない時も、大学生と夜遊んだり、いろんなとこ行ったり、やっぱりそれが子供の僕には刺激的で。今までテレビで『8時だよ全員集合』とか、夕方の再放送の『ウルトラマン』とかしか楽しみがなかった子供が、『ソウルトレイン』とか『ビート・ストリート』で黒人のファンクとかダンスとかを見たら、もう頭の中がいっぱいいっぱいになるんですよ。すごい情報量で楽しくて。夜、ディスコでそういうカルチャーを見て音楽を聴いて、お兄ちゃんお姉ちゃんたちに「これ何?」って聞くと教えてくれるんです。自分から情報を取りにいく、みたいなこともすごく楽しかったですから。
- 80年代って感じですね。そこからどうやって東京の美大生になったんですか?
三原:やっぱりみんな中学高校くらいから、将来のこと考えるじゃないですか。でも僕は考えたくなくて。プロサーファーを目指すか悩んだ時があったんですけど、プロになっても飯食えねえやって思って。そういうサーファーをいっぱい見てきたのもあって。サーフィンじゃ食えないし、音楽もね、バンドやったりもしてたけど、福岡って今ほどシーンが成熟してなかったので。かと言ってサラリーマンにはなれないなと思ってたら親に、「福岡におってもダメよ」って言われたんです。多分うちの親は九州から東京に出たかったんでしょうけど、特に女性は上京するより結婚して子育てした方がいいと言われてた時代なので。でも母親は寺山修司だったり、美輪明宏を見てた世代だったので、思うところがあったんでしょうね。おじいちゃんには、芸術家を目指すって言ったら大反対されましたけど、親は「福岡におってもムーブメントは起きん」って。「ムーブメント」って言葉自体、アングラ世界の世代っぽいでしょ(笑)。
- 学生運動世代っていう感じですね。かっこいい。
三原:そう。だからやっぱりすごく悔しかったんでしょうね。それで背中を押してくれたんです。美術大学に行って勉強をするっていうより、福岡にいても同世代でアートやデザインが好きな人たちに会う機会も少ないから、実際そういうのがウジャウジャいるようなところに行ってみたいと。当時はファッションデザインとか全く考えてなくて。それで、二浪して多摩美に行ったんです。二浪させてくれた親にも感謝してますね。で、やっぱりウジャウジャだったんですよ、天才が。だから僕の同級生みんなすごいですよ。特にベビーブーム真っ盛りの団塊ジュニア世代なんで、倍率50倍とか70倍とかの世界。二浪くらいが当たり前で、現役で入ると技術力が追いつかなくて苦労するって言われてましたね。大学は本当に才能がひしめき合ってたんで、それはすごく良かったです。
- そこからファッションと言うか、靴のデザインに興味を持ったのはどうしてですか?
三原:大学に入って、まず行ったことのない海外に行こうと思ったんです。で、アメリカじゃなくてロンドンに行ったんですよ。ロンドンのクラブシーンを見てみたかったというのもあるし、さっき言ったChristopher Nemethみたいなファッションもアートも面白そうで。ちょうどダミアン・ハースト(Damien Hirst)が出てきた頃だったし。チャップマンブラザーズ(Jake & Dinos Chapman)の展示もやってたんですよ。あのかなり挑発的なすごいやつ。そういうコンセプチュアルアートで人気の作家が出てきたり、アートが本当に変わってきている時だったんです。
で、昔からずっと思ってた事があるんですね。アートと人というのは隔たりがあると。子供の時に美術館とかに行って、作品に触ろうとすると怒られるじゃないですか。彫刻も撫でたり乗ったりできないし。で、変な反逆精神じゃないけど、浪人の時から、アートと人というのは調和できないのか、っていうことを思ってたんです。要するに、アートが偉くて人が低いみたいな世界じゃなく、アートというのは日常にあって、別に使って捨ててもいいじゃないかという世界ができないのかと。誰の日常にでもアートがあるような調和した世界ができるんじゃないか、みたいなことでね。
アートというのは一体何かというと、人が考えることを強要できる、強制できる力があることであって、ともすれば、そういう力があるものであれば、別に建築でも音楽でもファッションでも、全てにおいて同じで、アートと区別する必要はないんじゃないか、って。そういうことから、まず象徴として靴を作り出したんです。人が使って捨てる物のイコンとして。それと、子供の時からいろんなものを作ってきたけど、靴の作り方だけは一切分からなかったんですよね。今ならインターネットで検索できるだろうけど、当時はなんで先が丸くなるんだ、かかとが固くなるんだって分からなかったんで。それで、色んな意味でイコンというか象徴として靴を作り始めたんですよ。まさかそれを職業にしようとは思わなかったんですけど、やっぱりどっぷりハマって、ミイラ取りがミイラになるみたいな感じで、楽しくなっちゃってね。で、結果的にその受け皿がファッションの世界だったっていう。だから今も変わらないのは、人と芸術を調和させたいっていう概念のもとで、洋服もスニーカーも作っているってことですね。
- 服は、いつ頃から作り始めたんですか?
三原:99年頃には、革パンを作ったりはしてました。あと、きっかけ的には、ファッションデザイナーとシューズデザイナーの社会的地位の違いみたいなのもあったんですよ。特に日本だと、シューズデザイナーの方が下に見られてる感じがあって。で、洋服のデザイナーがシューズまでデザインすることもあるんだから、シューズデザイナーが洋服までやってもいいっていう世界を作ればいいやと思って、始めたんです。その頃は、ずっとヨーロッパでショーをやることになるとは思ってなかったですが。自分が好きな革パンを作ってるくらいだったんですけど、だんだん加速して、加速して。
- 加速してパリ、みたいな(笑)。
三原:それもね、僕は積極的な面と消極的な面が極端で、最初はヨーロッパとか行きたくないくらいだったんですよ、お金もかかるし。だけどPumaが売れて、MIHARA YASUHIROっていう名前が一人歩きして、インターネットもそんなに発達してないから、ミハラヤスヒロって一体何?ってことでPumaに問い合わせがずっと来てたそうなんです。特に海外では人の名前ってことさえわからないから、神社仏閣の名前だとか、「とらや」みたいに「みはらや」みたいなトンチンカンな記事が出たりとかして(笑)。それも逆に面白かったんですけど、ちゃんと世界にブランドとして見せた方がいいって周りからすごい言われて。それで当時、Pumaがピッティに出してたし、グローバルミーティングもフィレンツェだったので、関係者が来やすいようにミラノコレクションから始めたんです。今はパリでやってますが、こんなに続くとは…。
- 東京でショーをやった時はコスプレ?されてましたよね。2018年の神宮外苑のショーで、三原さんがオレンジの作業着を着て交通整理してるのを見てすごく楽しかったです。何年か前の浅草でも警備服で…(笑)。パリではやらないんですか?
三原:(笑)パリではさすがにやってないです。最近は、かっこつけようっていうアレなので(笑)。でもあのコスプレは楽しかったですね。日本でショーをやるときには、とにかく、なんだろう、いわゆるデザイナー像っていうの捨てなきゃと思ったんですよ、なぜか(笑)。あと変な話、僕が何をしようが、ブランドが崩れることはないという自負のもとやっているところがあるんですよね。コロナ禍とかに、ファッションで世の中を明るくとか色んなところで言われてましたけど、僕はそんなたいそうな事思ってなく。ただ、目の前の人たちを笑わせることはできるかな、と。それこそ、親に言われた「ムーブメント」っていうものを考えた時に、かっこいいことだけじゃなく、そういうこともできた方がいいなって。やっぱり寺山修司の天井桟敷とかも、舞台演出の中で信じられないことが起きるんですよ。つい最近だったら、中村座の歌舞伎で、古い話かと思ったらいきなりパトカーが舞台に出てきたりとかね。そういうのを見た時に、ファッションって遅れてるな、と思ったりするんですよ。で、最小限の労力で最大限の効果を得るためには、僕が道化になるのが一番いいなと思って、それでああいうことをやっちゃうんですよね(笑)。あの外苑でやったショーでは、当時感じた色々な皮肉を込めた細かいギミックも考えたりしたんですよ。攻めすぎて、周りからやめてくださいって言われて諦めた部分もあったんですけど(笑)。
- でもその皮肉とか反骨精神を、笑える形でショーにしたのはすごいです。
三原:ブランドを長年やってると時々ね、「日本のファッションシーンにおいて、将来何か願っていることありますか?」とか聞かれるんですけど、僕は正直そういう事なんにも考えてないんです(笑)。でも、健全になれるんじゃないかなとは思ってますよ。今やファッションて大きくなりすぎたというか、もう巨大産業なわけですよね。その中で、大企業が力を持っていくというのは必然的な事。それが偉そうにしているのは嫌ですけどね。同時に小さいビジネスというのも必要だし、きっとなくならない。クリエイションと商業って色んなバランスがありますけど、ビジネス自体のやり方も、クリエイティブに考えられると思うんです。物事には何でも一定の要素や理由や影響があるから、それをクリエイティブに捉えられるのが、ファッションビジネスかなとも思うんです。ファッションには流通という決まったフォーマットがあるので、みんなそれから新しいことを考えないようにはなっているんですけど、ただそこも、ちょっとずつ輪切りにして一個一個見直すと、クリエイティブにすべき要素というのは多分いっぱいあるんですよ。僕はデザイナーであり経営者でもあるので、そういうことを考えるのも大事だと思うんで。策士ですよ(笑)。
- (笑)さすが経営者です。安心します。それと最近、DJとしてもお見かけするんですが、昔からやってたんですか?
三原:実は長いんですよ。ちょっとやめてたんですけどね。レコードを回して、Technicsのミキサーとかを使うようになったのが16の後半か17歳で。その頃ちょうど、ハウスミュージックが出てきたんです。1、2年ぶりにディスコに行ってみようと思ったら、ディスコが全部クラブになってて、ファンクみたいなのが流れてるかなと思ったら、ハウスっていうのになってたんですよ。友達に「やっちゃん、これからはハウスやけん」って言われて、「ハウスか!」って(笑)。で、そこから四つ打ち、ガレージハウス、ゴスペル調のまで聴いて、かっこいいやん!やってみようって。最初は何も持ってないから、ドラムマシーンをちょっと道で手に入れて、少しずつスキルをつけて…。
- ストリート感すごいですね(笑)。
三原:そう、もう完全にストリート(笑)。そこからキーボードとかシーケンサーとかもどうにか入手して、当時は全部ミディっていうジャックで繋いでいくんだけど、それも覚えて、ヒップホップの人たちどうやってんだとか、『サウンド&レコーディング』っていう音楽雑誌に載ってる色んな繋ぎ方を勉強して、ハウスを作ってたんです。ただ、当時はサンプリングマシーンが20万くらいして買えなかったから、歌を入れたりとかサンプリングができなくて、とにかくキーボードの音をいじくって作ってたのが、テクノハウスっていう時代で。それがだんだんテクノっていう形になってきて、打ち込みもやったりするけど、レコードもかけて、それこそ、リル・ルイス(Lil Louis)みたいなドープなハウスとかかけてたんですよ。そしたら、やっぱり、その時代にこんな事やってる人間って少数だったんで、インターネットもメールもない時代なのに、なぜか繋がっていくんですよ。ケン・イシイとか、(石野)卓球くんとかみんな仲良くなって。今では、みんなレジェンドになってるけど。
- え、すっご…。
三原:卓球くんは、当時僕の中では電気グルーヴじゃなくて、ナゴムレコードっていうレコード会社の人生(ZIN-SÄY!)っていうバンドにいたイメージなんですよね。ケン・イシイは、僕がやめるきっかけにもなったんですけど、その当時、僕も結構デモテープとか作って、ヨーロッパのレーベルとかに送ってたんですよ。カセットテープを。ただやっぱりなかなか引っかかんなくて。そしたらケン・イシイが向こうのレーベルから『Garden On The Palm』っていうアルバムを出したんですね。聴いてみたら、すっごくおしゃれというか、今まで聴いたことのない音色で、今でこそインテリジェンステクノって言われるジャンルの、踊らない系のね。それを聴いた時に、あぁ…、やめようって(笑)。
- (笑)すんごいしっかりやってたんですね。
三原:最初はハウスから入ったんですけど、僕も結構アンビエント系で、知れば知るほど実験的な方に行くんですよ。エクスペリメンタル系に。やっぱり若い時って、アングラに行きたがるんですよね(笑)。で、誰も聴いたことのない音楽をって、よりニッチな世界をどんどんどんどん突き詰めていくと、だんだんビートすらもなくなってね。電子音だけのピー、ピー、ピー、ピピピーみたいな曲ばっかり作るようになっちゃって。もうね、帰ってこれなくなっちゃったんですよ(笑)。あ、これもう終わりだなと思ってた時に、2人が有名になってきて、もうケン・イシイとかに任せようと思って(笑)。
- (笑)すごいです、としか言えません。それを聴いたら、最近の三原さんのDJをよりありがたく聴けます。
三原:何でまた始めたかっていうと、50を過ぎてね、ふと、このままみんな棺桶に行くのかなって思ったら、やっぱ、老人ホーム or テクノっていう…(笑)。
- 老人ホーム or テクノはパワーワードです(笑)。
三原:ほら、今の若い子たちは人数少ないじゃないですか。で、僕らの世代がそのまま年取ってきて、いかに楽しい50代、60代のシーンを作っていくべきかって思うようになっちゃって。ファッションシーンでも、20代、30代の世界に無理して付き合ってる部分もあるんですよ、正直。かたや、この50代、60代のカルチャーシーンはこのまま衰退していっていいのかって自分に問いかけた時に、いやダメだ、と思ったんですよね。
- 昔若者だった大人たちも、楽しみは欲しいですよね。
三原:30代、40代は子育てとかして、クラブとかに行かなくなった人たちも、50代から子供が自立してったり、離婚したみたいな人もいるから、時間の使い方変わるじゃないですか。だから、よし、DJやろうと思って。こういう例をいっぱい作っていけば、もう棺桶に半分足を突っ込んでいるところまで行ったとしても、楽しい人生にできるんじゃないかって思ったんです。70、80になってもかっこいいシーンを作れるんじゃないかなって。アメリカのジャズシーンなんて、50歳くらいまでベイビーって呼ばれてるそうなんですよ。60、70、80って、上の層が厚いんで。
- 一生現役って言いますよね。
三原:そう。ジャズの世界は、一生現役なんですよ。だから最近はね、暇さえあればDJのネタをディグってます。それとね、昔の曲ってレコードも生演奏のも結構あるんで、それを取り込んでBPMをきれいに揃え直したりもしてます。80年代のハウスとかって、結構シーケンサーが不安定だから、曲の前半と後半でBPMがずれてたりもするんで、それを直して少しアレンジ入れたりとか。
UNION TOKYO:もうアーティストですね…。
- 音も作って、服も作って、サーフィンして、スケボーもして…、すごい楽しそうですね(笑)。
三原:楽しいですよめちゃくちゃ。昨日はサーフィンしたあとにスケボーもしました。
- 動きが20代です(笑)。
UNION TOKYO:三原さん、ご自宅にスケートランプありませんでしたか?
三原:はい、今はスタジオにしちゃいましたけどね。小さいボウルがありましたよ。あれはね、以前南平台に住んでた時、一人で夜中にスケボーしてたんですよ。そしたら、ぐわーってベンツのゲレンデが横に停まってきて、見たら同い年の知り合いだったんですけど、「あれ?やっちゃんまだスケボーなんかやってんの?」言われたんですよ。そいつは助手席にいかにもって感じの派手な女の子乗せてて。それを見た時に、すっげえムカついたんですよ(笑)。まるでこう、スケボーやってることをすごく下に見られた感じで。だからもううちにスケートのボウル作ってね(笑)。まあ、こけて頭を打っちゃうのも嫌なんで、サーフスケートって感じで、小さくてユルいのだったんですが。そうそう(笑)。
- すごすぎます(笑)。LAでやるこのコラボのローンチイベントに三原さんも行って、DJされるんですよね?
UNION TOKYO:クリスもやりますよ。
三原:そうなんですよ。クリスどんな曲かけるのかな~?この前彼がドーバー (DOVER STREET MARKET GINZA)のOPEN HOUSEでDJした時は、懐かしいのから新しいハウス、ちょっとヒップホップやジャズ系も入れたミックスで、結構幅広かったんですよね。そういえば、ラリー・レヴァン(Larry Levan)っていうレジェンドDJがいて、なぜか福岡のイベントにも何回か来てたんです。本場のDJってどんなだろうって聴きに行ったんですけど、DJってみんなオシャレにBPM合わせてきれいに繋ぐと思ったら、そんなのなくて、もう、ぶっ込み系。曲の上にぶち込んでくるんですよ(笑)。いかにシームレスKNOWに繋ぐかって考えが一気に崩れるくらい結構ぶち込みで、俺たち考えすぎだなって(笑)。 今回はLAで何かけようかなって色々迷ってるんですけど、今またニューヨリカン・ソウル(Nuyorican Soul)のやつで、BPMを直したい曲があるのを思い出しちゃいました。
RELEASE DATE
2026/8/7 (FRI) *LA
2026/8/8 (SAT)*JAPAN
RELEASE STORE
UNION TOKYO ONLINE STORE:9AM JST
UNION TOKYO/OSAKA STORE OPENING HOUR:11AM JST
※下記、Maison MIHARA YASUHIRO 各店でも販売予定
Maison MIHARA YASUHIRO JINGUMAE BUILDING / ISETAN MENS SHINJUKU / Maison (MY) Labo. / OSAKA / Online Store
※コラボレーション商品を実店舗でご購入のお客様にはブランド限定カラーのNOVELTY TOTE BAGを配布予定。(限定数につき在庫が無くなり次第終了とさせて頂きます)
取材・編集:Saori Ohara @saorisaurus
撮影:UNION TOKYO / JO