KNOW THE LEDGE / ALL ABOUT AIR SHIP

KNOW THE LEDGE / ALL ABOUT AIR SHIP

1984年に生まれたAIR SHIPは、2020年にAIR JORDAN 1のOGとセット復刻されるまで、日の目を当たることはなかった。この靴は、極めて真っ当なバスケットシューズでありながら、ことAIR JORDAN 1の歴史を伝えようとするとき、そのストーリーを複雑にしてしまう存在だったからだ。このシューズの真実を語るにはあまりに謎が多く、今でもNIKEからの公式な解明はアナウンスされていない。つまりAIR SHIPは今でもジャーナリストやアディクトたちの間のゴシップトークの域を出ないのある。しかし今、こうして2022年秋にアジア地域では UNION TOKYO のみで復刻されたからには、このシンプルなレトロの価値を未来に守るためにある程度の情報の肉付けをするべきである。

Text:Masayuki Ozawa Photo:aflo




『寡黙なつなぎ役として』

’80年代のスタンダードな特徴を備えたAIR SHIPSのデザインは、今見るとあまりにシンプルで、飾り気に欠けるところがある。しかしそこには二つの名作を繋ぐために必要な寡黙さがあり、結果的には優れたデザインだったといえる。
1979年、それまで自動車の設備や家電のデザインを手がけていたブルース・キルゴアがNIKEに入社すると、彼は歴史的なランニングシューズ、テイルウインドに搭載されたナイキエアを機能的なバスケットボールシューズにするための方法を模索していた。それが怪我に悩まされるビッグプレイヤーに、最適かつ快適なパフォーマンスを提供するAIR FORCE1の誕生だった。ソールに内蔵されたフルレングスエアは、高いクッショニングが膝を守り、くるぶしを囲むセンサーベルトは足首を守った。重厚ながらどこかに軽さを感じるデザインは、後に誕生するACGカテゴリの基盤となるハイキングブーツ、APPROACHからインスピレーションを得ていた。
AIR FORCE1は当時の最高級のバスケットボールシューズで、NIKEも会社として大きな成功を収めたが、次のステップはその開発事例をどう繋げていくかにあった。70年代にアッパーデザインが画一化され、切り替えによる素材や配置などの完成形がある程度出来上がったランニングシューズは、’80年台になるとソールの開発に重点が置かれるようになる。同じ道を辿るのであれば、バスケットボールシューズもAIR FORCE1がシンボルとなって小さな改良をする必要がある。そうした中で1984年に誕生したのがAIR SHIPだった。ちなみにAIR FORCE 1のネーミングの由来が、アメリカ大統領が搭乗する空軍機であるのは有名だが、その頃は空高く飛ぶ夢を「AIR」に託したのか、空や乗り物を連想させるモデル名が多かった。ちなみにAIR SHIPは飛行船である。どことなくスローな気分になるが、れっきとした後継機種で、テクノロジーはアップデートされている。開発担当は同じくブルース・キルゴアで、改良ポイントは履き口のセンサーベルトが省略されたこと。そしてトゥの補強からアイレットにつながるレザーを、通し穴3つ分にも及ぶ厚みをもたせることで、つま先にかけてのホールド性を高めたことが大きな2点だが、決して存在感が高いわけでもなく、言ってみれば誰のためでもない、無個性なシューズともいえる。




『マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズ』

1963年2月17日、ニューヨークのブルックリンでバスケの神となるべく生を受けたマイケル・ジョーダンは誕生後まもなく、父の故郷であるノースカロライナへ引っ越し、野球に熱中した少年時代を送った。11歳の時、庭にバスケットボールコートが設置されたことをきっかけに、兄のラリーと1on1を繰り返すことで、身も心もボーラーなっていった。高校時代にすでに頭角を現したジョーダンは、鳴り物入りで地元の強豪、ノースカロライナ大学へ進学。新人王に輝き、NCAAトーナメントの決勝では優勝を決めるジャンプショットを決めるなど、ルーキーイヤーからその名を全米中に轟かせたのだ。その後、順調に成長したジョーダンは、大学3年生にして全米最優秀選手賞を受賞し、4年生を残しながらNBAのドラフトにアーリーエントリーすることとなる。全体3位でシカゴ・ブルズに指名された。



                                                コンバースを着用してロサンゼルスオリンピックでプレイするマイケル・ジョーダン。©aflo

NBAのドラフトはある意味で公平性が重視されているのが特徴で、指名順は前シーズンの勝率の低いチームが獲得できる仕組みとなっている(抽選もあるが)。つまり当時のシカゴ・ブルズはかなりの弱小だったため3位だったということだ(1位はヒューストン・ロケッツ、2位はインディアナ・ペイサーズ)。例えば日本のプロ野球のように複数の球団が同じプレイヤーを選択することができ、被ったら抽選という方式もフェアだが、くじを引く監督の星の巡り合わせもひとつの能力とするならばアンフェアといえるのかもしれないし、リーグ全体のレベルの均一化、盛り上がりを考えたら、NBAはとても理に叶ったシステムともいえる。

かくして、シカゴ・ブルズに入団が決まったマイケル・ジョーダンは、ドラフトのすぐに迎えたロサンゼルス・オリンピックでも米国代表として活躍し、チーム最高の平均得点をマークするなど、母国に金メダルをもたらすヒーローだった。交渉代理人のデビッド・フォークは、いかにしてジョーダンにエンドースメント契約(企業から報酬が支払われる代わりに、企業の商品を身につけて宣伝すること)を締結させるかを考えていたところ、NIKEが手を挙げた。 ノースカロライナ大時代のジョーダンは、チームの契約上コンバースを着用していたが、練習ではずっとadidasのクオリティの高さに惚れ込んでいた。新品の状態を慣らすことなくすぐに履けるのはadidasだけと断言し、自身を「アディダス・ナッツ(狂)」と呼んでいたほどだ。しかし、adidasは当時、ゴール下を支配するビッグマンのサポートに必死で、残念ながらジョーダンは構想外だった。そんな中でNIKEは交渉を重ねていく。代理人のフォークも、ジョーダンを特別な選手にしたいがために、いくつものアイデアを提案した。そこで合意したのが、ジョーダンのためだけのシューズとアパレルを用意することだった。


『禁じられたブレッドとエア シップの関係』

ジョーダンのために作られたAIR JORDANは、シカゴ・ブルズを象徴する黒と赤に彩られた「Bred」が最も有名なのは、それがNBAで禁止されたカラーだからだ。1985年、アメリカで放映されたAIR JORDANのコマーシャルは、以下のようなナレーションが語られていた。

9月15日、ナイキは革新的なバスケットボールシューズを開発した。
10月18日、NBAはこのシューズをゲームから追放した。
しかし幸いなことに、諸君がAIR JORDANを履くことを、NBAは止めることができない。

『ナイキ エア ジョーダン』

ジョーダンが罰金を払いながら自身のシューズを履き続けたという逸話は、スニーカーヘッズでなくても聞いたことがあるだろうが、これの信憑性には諸説あり、ここでも少し疑義を唱えたいと思う。「禁止されたシューズ」のストーリーをジョーダンの鮮烈なデビューに利用した、いわば反抗的なCMは極めて秀逸なマーケティングであり、その効果はマンデラでしかなかった。なぜなら「禁止されたシューズ」は、AIR JORDANではなかったからだ。
ジョーダンと契約してからNBAのシーズンが開幕するまで、わずか数ヶ月しかなかった。その限られたリミットで新しいシューズ、つまりAIR JORDAN を製品化させるのは不可能と判断したNIKEは、ジョーダンにAIR SHIPの黒×赤を特別に用意したのだった。つまり1984年の10月18日、シカゴ・ブルズとニューヨーク・ニックスとのプレシーズンマッチに、着用したジョーダンのシューズはAIR SHIPだったのだ。当時のNBAには「ユニフォームの統一性に関する規約」があり、このシューズはそれを違反していた。厳密に言えば、黒×赤が問題だったというよりも、それがチームの統一を乱していることをリーグは指摘したのである。

レギュラーシーズンのほとんどは、CHICAGOカラーのAIR JORDAN 1を着用していた。©aflo

レギュラーシーズンが始まって以降、黒×赤のシューズをジョーダンが履いたかどうかは、出場全試合のデータが残っていない限り判然としない。ただ、確認できるいくつかの写真は、どれも白×赤のAIR SHIP、または通称”CHICAGO”と呼ばれる白×黒×赤のAIR JORDAN1だ。ジョーダンが実際に黒×赤のAIR JORDAN1を履いた事実が記録されているのは、1985年2月に行われたオールスターウィークエンド。しかしこれはレギュラーシーズンとは異なるお祭りイベントゆえ、前述した規約が該当しないのである。おそらくNIKE、もしくは代理人のフォークはこの抜け道を承知の上で、興行的なオールスターで話題作りを画策したと思われる。この日のジョーダンのコスチュームを生意気と思ったチームメイトたちが、ジョーダンにパスを回さなかった「フリーズ・アウト事件」は、有名なエピソードだ。
こうしてみると、なぜAIR SHIPが今までフックアップされなかったかがわかるだろう。過去に類を見ないカラーウェイをまとい、NBAに追放されかけたAIR JORDANは、ジョーダンに「悪童」の風格を与えながらも、ジョーダンの誰よりも華やかなプレイを支え、何よりもコートで輝き続けた。しかしアナーキズムの象徴となり、カルチャーのアイコンになるべきはAIR SHIPではなかったか。幸か不幸か、AIR JORDANの身代わり役になるには、このシンプルでクラシックなデザインは適任だった。そしてそのルーツがAIR FORCE1にあるならば、AIR SHIPの特別でないにしても重要なスペックは、ストリートに愛されるべきであることを十分に物語っている。
NIKEは2020年、このAIR SHIPを讃えるかのように、AIR JORDAN1と「New Begining Pack」という名の下にセット販売し、ジョーダン・ブランドの名の下に初めて復刻した。正式に、今でも謎が取り巻くAIR JORDANの神話に語り継がれるべきシューズとして、結びつけたということになる。そして長い空白から取り戻した歴史を新しく築いていくためには、我々ストリートの理解と支持が不可欠ではないだろうか。

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1984年に生まれたAIR SHIPは、2020年にAIR JORDAN 1のOGとセット復刻されるまで、日の目を当たることはなかった。この靴は、極めて真っ当なバスケットシューズでありながら、ことAIR JORDAN 1の歴史を伝えようとするとき、そのストーリーを複雑にしてしまう存在だったからだ。このシューズの真実を語るにはあまりに謎が多く、今でもNIKEからの公式な解明はアナウンスされていない。つまりAIR SHIPは今でもジャーナリストやアディクトたちの間のゴシップトークの域を出ないのある。しかし今、こうして2022年秋にアジア地域では UNION TOKYO のみで復刻されたからには、このシンプルなレトロの価値を未来に守るためにある程度の情報の肉付けをするべきである。

Text:Masayuki Ozawa Photo:aflo




『寡黙なつなぎ役として』

’80年代のスタンダードな特徴を備えたAIR SHIPSのデザインは、今見るとあまりにシンプルで、飾り気に欠けるところがある。しかしそこには二つの名作を繋ぐために必要な寡黙さがあり、結果的には優れたデザインだったといえる。
1979年、それまで自動車の設備や家電のデザインを手がけていたブルース・キルゴアがNIKEに入社すると、彼は歴史的なランニングシューズ、テイルウインドに搭載されたナイキエアを機能的なバスケットボールシューズにするための方法を模索していた。それが怪我に悩まされるビッグプレイヤーに、最適かつ快適なパフォーマンスを提供するAIR FORCE1の誕生だった。ソールに内蔵されたフルレングスエアは、高いクッショニングが膝を守り、くるぶしを囲むセンサーベルトは足首を守った。重厚ながらどこかに軽さを感じるデザインは、後に誕生するACGカテゴリの基盤となるハイキングブーツ、APPROACHからインスピレーションを得ていた。
AIR FORCE1は当時の最高級のバスケットボールシューズで、NIKEも会社として大きな成功を収めたが、次のステップはその開発事例をどう繋げていくかにあった。70年代にアッパーデザインが画一化され、切り替えによる素材や配置などの完成形がある程度出来上がったランニングシューズは、’80年台になるとソールの開発に重点が置かれるようになる。同じ道を辿るのであれば、バスケットボールシューズもAIR FORCE1がシンボルとなって小さな改良をする必要がある。そうした中で1984年に誕生したのがAIR SHIPだった。ちなみにAIR FORCE 1のネーミングの由来が、アメリカ大統領が搭乗する空軍機であるのは有名だが、その頃は空高く飛ぶ夢を「AIR」に託したのか、空や乗り物を連想させるモデル名が多かった。ちなみにAIR SHIPは飛行船である。どことなくスローな気分になるが、れっきとした後継機種で、テクノロジーはアップデートされている。開発担当は同じくブルース・キルゴアで、改良ポイントは履き口のセンサーベルトが省略されたこと。そしてトゥの補強からアイレットにつながるレザーを、通し穴3つ分にも及ぶ厚みをもたせることで、つま先にかけてのホールド性を高めたことが大きな2点だが、決して存在感が高いわけでもなく、言ってみれば誰のためでもない、無個性なシューズともいえる。





『マイケル・ジョーダンとシカゴ・ブルズ』

1963年2月17日、ニューヨークのブルックリンでバスケの神となるべく生を受けたマイケル・ジョーダンは誕生後まもなく、父の故郷であるノースカロライナへ引っ越し、野球に熱中した少年時代を送った。11歳の時、庭にバスケットボールコートが設置されたことをきっかけに、兄のラリーと1on1を繰り返すことで、身も心もボーラーなっていった。高校時代にすでに頭角を現したジョーダンは、鳴り物入りで地元の強豪、ノースカロライナ大学へ進学。新人王に輝き、NCAAトーナメントの決勝では優勝を決めるジャンプショットを決めるなど、ルーキーイヤーからその名を全米中に轟かせたのだ。その後、順調に成長したジョーダンは、大学3年生にして全米最優秀選手賞を受賞し、4年生を残しながらNBAのドラフトにアーリーエントリーすることとなる。全体3位でシカゴ・ブルズに指名された。


コンバースを着用してロサンゼルスオリンピックでプレイするマイケル・ジョーダン。

©aflo

NBAのドラフトはある意味で公平性が重視されているのが特徴で、指名順は前シーズンの勝率の低いチームが獲得できる仕組みとなっている(抽選もあるが)。つまり当時のシカゴ・ブルズはかなりの弱小だったため3位だったということだ(1位はヒューストン・ロケッツ、2位はインディアナ・ペイサーズ)。例えば日本のプロ野球のように複数の球団が同じプレイヤーを選択することができ、被ったら抽選という方式もフェアだが、くじを引く監督の星の巡り合わせもひとつの能力とするならばアンフェアといえるのかもしれないし、リーグ全体のレベルの均一化、盛り上がりを考えたら、NBAはとても理に叶ったシステムともいえる。

かくして、シカゴ・ブルズに入団が決まったマイケル・ジョーダンは、ドラフトのすぐに迎えたロサンゼルス・オリンピックでも米国代表として活躍し、チーム最高の平均得点をマークするなど、母国に金メダルをもたらすヒーローだった。交渉代理人のデビッド・フォークは、いかにしてジョーダンにエンドースメント契約(企業から報酬が支払われる代わりに、企業の商品を身につけて宣伝すること)を締結させるかを考えていたところ、NIKEが手を挙げた。 ノースカロライナ大時代のジョーダンは、チームの契約上コンバースを着用していたが、練習ではずっとadidasのクオリティの高さに惚れ込んでいた。新品の状態を慣らすことなくすぐに履けるのはadidasだけと断言し、自身を「アディダス・ナッツ(狂)」と呼んでいたほどだ。しかし、adidasは当時、ゴール下を支配するビッグマンのサポートに必死で、残念ながらジョーダンは構想外だった。そんな中でNIKEは交渉を重ねていく。代理人のフォークも、ジョーダンを特別な選手にしたいがために、いくつものアイデアを提案した。そこで合意したのが、ジョーダンのためだけのシューズとアパレルを用意することだった。


『禁じられたブレッドとエア シップの関係』


ジョーダンのために作られたAIR JORDANは、シカゴ・ブルズを象徴する黒と赤に彩られた「Bred」が最も有名なのは、それがNBAで禁止されたカラーだからだ。1985年、アメリカで放映されたAIR JORDANのコマーシャルは、以下のようなナレーションが語られていた。

9月15日、ナイキは革新的なバスケットボールシューズを開発した。
10月18日、NBAはこのシューズをゲームから追放した。
しかし幸いなことに、諸君がAIR JORDANを履くことを、NBAは止めることができない。

『ナイキ エア ジョーダン』


ジョーダンが罰金を払いながら自身のシューズを履き続けたという逸話は、スニーカーヘッズでなくても聞いたことがあるだろうが、これの信憑性には諸説あり、ここでも少し疑義を唱えたいと思う。「禁止されたシューズ」のストーリーをジョーダンの鮮烈なデビューに利用した、いわば反抗的なCMは極めて秀逸なマーケティングであり、その効果はマンデラでしかなかった。なぜなら「禁止されたシューズ」は、AIR JORDANではなかったからだ。
ジョーダンと契約してからNBAのシーズンが開幕するまで、わずか数ヶ月しかなかった。その限られたリミットで新しいシューズ、つまりAIR JORDAN を製品化させるのは不可能と判断したNIKEは、ジョーダンにAIR SHIPの黒×赤を特別に用意したのだった。つまり1984年の10月18日、シカゴ・ブルズとニューヨーク・ニックスとのプレシーズンマッチに、着用したジョーダンのシューズはAIR SHIPだったのだ。当時のNBAには「ユニフォームの統一性に関する規約」があり、このシューズはそれを違反していた。厳密に言えば、黒×赤が問題だったというよりも、それがチームの統一を乱していることをリーグは指摘したのである。



レギュラーシーズンのほとんどは、CHICAGOカラーのAJ1を着用していた。

©aflo

レギュラーシーズンが始まって以降、黒×赤のシューズをジョーダンが履いたかどうかは、出場全試合のデータが残っていない限り判然としない。ただ、確認できるいくつかの写真は、どれも白×赤のAIR SHIP、または通称”CHICAGO”と呼ばれる白×黒×赤のAIR JORDAN1だ。ジョーダンが実際に黒×赤のAIR JORDAN1を履いた事実が記録されているのは、1985年2月に行われたオールスターウィークエンド。しかしこれはレギュラーシーズンとは異なるお祭りイベントゆえ、前述した規約が該当しないのである。おそらくNIKE、もしくは代理人のフォークはこの抜け道を承知の上で、興行的なオールスターで話題作りを画策したと思われる。この日のジョーダンのコスチュームを生意気と思ったチームメイトたちが、ジョーダンにパスを回さなかった「フリーズ・アウト事件」は、有名なエピソードだ。
こうしてみると、なぜAIR SHIPが今までフックアップされなかったかがわかるだろう。過去に類を見ないカラーウェイをまとい、NBAに追放されかけたAIR JORDANは、ジョーダンに「悪童」の風格を与えながらも、ジョーダンの誰よりも華やかなプレイを支え、何よりもコートで輝き続けた。しかしアナーキズムの象徴となり、カルチャーのアイコンになるべきはAIR SHIPではなかったか。幸か不幸か、AIR JORDANの身代わり役になるには、このシンプルでクラシックなデザインは適任だった。そしてそのルーツがAIR FORCE1にあるならば、AIR SHIPの特別でないにしても重要なスペックは、ストリートに愛されるべきであることを十分に物語っている。
NIKEは2020年、このAIR SHIPを讃えるかのように、AIR JORDAN1と「New Begining Pack」という名の下にセット販売し、ジョーダン・ブランドの名の下に初めて復刻した。正式に、今でも謎が取り巻くAIR JORDANの神話に語り継がれるべきシューズとして、結びつけたということになる。そして長い空白から取り戻した歴史を新しく築いていくためには、我々ストリートの理解と支持が不可欠ではないだろうか。





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