Epi.01 NIKE PRE MONTREAL
未完の思想を継ぐスパイク
NIKEのランニングの歴史は約50年前に始まっている。常に革新的なテクノロジーを生み出すためにアイデアを磨いてきた日々の積み重ねが、現代における厚底ブームを作り出したともいえる。私たちが日常のファッションに、そして日々のランニングに履いているNIKEのシューズがどう生まれ、進化し、その系譜を辿っていたか。今回はその初期といえる1970年代の名品にフォーカスしてストーリーを掘り下げてみたい。
Photograph:Keita Goto[W] Text:Masayuki Ozawa Production:MANUSKRIPT
Special Thanks : Karimoku, Commons Tokyo / wagetsu わ月
まずは一人の偉大なランナーについて話をしないと、このシューズの本筋には辿りつかない。その名はスティーブ・プリフォンテーン。生まれたばかりのNIKEが、初めて契約したアマチュアの中長距離ランナーだ。「PRE(プリ)」の愛称で知られたこの男は1951年生まれ、オレゴン州の出身。高校生にして2マイルの米国記録を樹立するなど、若くして将来を約束された男だった。
高校卒業後、多くの大学から誘いを受けたプリが選んだ進路は、NIKEの共同設立者のビル・バウワーマンと彼のアシスタントのビル・デリンジャーが指導するオレゴン大学だった。2人のコーチによってその才能がさらに開花したプリ。顎鬚をたっぷりたくわえた野生的なルックスと、どんな小さなレースも命をかける戦士のような走りは、いつだって見る者を引きつけた。当時の陸上は、決して「クール」な競技とはいえなかったが、プリの情熱や信念が注がれた大胆な走りが、アメリカの価値を変えたといってもいい。そんな彼の足元には、常にNIKEのシューズがあった。
1972年、ミュンヘン五輪の5000mに出場して4位になったプリ。メダルを逃したレース内容は決して満足のいくものではなかったが、彼は全米で最も有名なランナーになった。そんなプリをNIKEは支えた。トレーニング費を負担し、ストアの手伝いをさせ、ときにセールスマンとしての役割を与えることで、彼は走ることに集中する金銭と環境を得ることができたのだった。
1974年、そんな彼のためにNIKEが用意したシューズが「PRE MONTREAL」である。ネーミングには、2年後に開催されるモントリオールの大会にかけるNIKEの意気込み、そしてプリに金メダルへの期待を込められていた。大きな特徴は、縫い目を持たないワンピース構造のトゥ。プリは従来のシューズのつま先の補強が足のフィットに良い影響を与えないと、NIKEに改善をリクエストしていたという。こうした助言により、圧迫を感じさせない、包み込むような履き心地を実現している。このスパイクを履いたプリが世界のトップになることを全米の誰もが疑わなかったが、それは叶わぬ夢となった。1975年5月30日、プリは交通事故により24歳の若さで尊い命を失ってしまったのである。
スパイクピンがソールについたランニングシューズは街履きに向かないため、ヴィンテージ市場のニーズはよほどの蒐集家に限られるが、「PRE MONTERAL」に限っては今も価値が上昇している。アメリカらしいカラーリングや70年代特有の細身のフォルムなど、人気の理由はいろいろあるが、一番はNIKEとプリがともに歩んだ、挑戦の結晶というストーリーが現代にも響いているからだろう。本作はそもそもトゥに補強があるものだった。しかし正確な時期は定かではないが、プリの助言によってなくなった。つまりプリのために改良されたバージョンが一般的で、マニア間では後期型とみなされている。しかし流通量の少なさから、前期型も非常に価値が高いのである。
Epi.01 NIKE PRE MONTREAL
未完の思想を継ぐスパイク
NIKEのランニングの歴史は約50年前に始まっている。常に革新的なテクノロジーを生み出すためにアイデアを磨いてきた日々の積み重ねが、現代における厚底ブームを作り出したともいえる。私たちが日常のファッションに、そして日々のランニングに履いているNIKEのシューズがどう生まれ、進化し、その系譜を辿っていたか。今回はその初期といえる1970年代の名品にフォーカスしてストーリーを掘り下げてみたい。
Photograph:Keita Goto[W]
Text:Masayuki Ozawa Production:MANUSKRIPT
Special Thanks : Karimoku, Commons Tokyo / wagetsu わ月
まずは一人の偉大なランナーについて話をしないと、このシューズの本筋には辿りつかない。その名はスティーブ・プリフォンテーン。生まれたばかりのNIKEが、初めて契約したアマチュアの中長距離ランナーだ。「PRE(プリ)」の愛称で知られたこの男は1951年生まれ、オレゴン州の出身。高校生にして2マイルの米国記録を樹立するなど、若くして将来を約束された男だった。
高校卒業後、多くの大学から誘いを受けたプリが選んだ進路は、NIKEの共同設立者のビル・バウワーマンと彼のアシスタントのビル・デリンジャーが指導するオレゴン大学だった。2人のコーチによってその才能がさらに開花したプリ。顎鬚をたっぷりたくわえた野生的なルックスと、どんな小さなレースも命をかける戦士のような走りは、いつだって見る者を引きつけた。当時の陸上は、決して「クール」な競技とはいえなかったが、プリの情熱や信念が注がれた大胆な走りが、アメリカの価値を変えたといってもいい。そんな彼の足元には、常にNIKEのシューズがあった。
1972年、ミュンヘン五輪の5000mに出場して4位になったプリ。メダルを逃したレース内容は決して満足のいくものではなかったが、彼は全米で最も有名なランナーになった。そんなプリをNIKEは支えた。トレーニング費を負担し、ストアの手伝いをさせ、ときにセールスマンとしての役割を与えることで、彼は走ることに集中する金銭と環境を得ることができたのだった。
1974年、そんな彼のためにNIKEが用意したシューズが「PRE MONTREAL」である。ネーミングには、2年後に開催されるモントリオールの大会にかけるNIKEの意気込み、そしてプリに金メダルへの期待を込められていた。大きな特徴は、縫い目を持たないワンピース構造のトゥ。プリは従来のシューズのつま先の補強が足のフィットに良い影響を与えないと、NIKEに改善をリクエストしていたという。こうした助言により、圧迫を感じさせない、包み込むような履き心地を実現している。このスパイクを履いたプリが世界のトップになることを全米の誰もが疑わなかったが、それは叶わぬ夢となった。1975年5月30日、プリは交通事故により24歳の若さで尊い命を失ってしまったのである。
スパイクピンがソールについたランニングシューズは街履きに向かないため、ヴィンテージ市場のニーズはよほどの蒐集家に限られるが、「PRE MONTERAL」に限っては今も価値が上昇している。アメリカらしいカラーリングや70年代特有の細身のフォルムなど、人気の理由はいろいろあるが、一番はNIKEとプリがともに歩んだ、挑戦の結晶というストーリーが現代にも響いているからだろう。本作はそもそもトゥに補強があるものだった。しかし正確な時期は定かではないが、プリの助言によってなくなった。つまりプリのために改良されたバージョンが一般的で、マニア間では後期型とみなされている。しかし流通量の少なさから、前期型も非常に価値が高いのである。