いつだって、映画からたくさんのインスピレーションを得てきた。そのストーリーが成り立つ時代背景や場所に流れる空気、劇中の音楽、登場人物が身にまとうファッション、彼らの口ぶりから。スパイク・リー監督の諸作もまた、例に漏れず。とりわけ20世紀後半以降の、ニューヨークを中心としたアメリカ都市部のブラックカルチャーを知る上で、最良のエデュケーションであり続けている。今回は1986年に映画が公開され、2017年にはNetflixのドラマシリーズとしてセルフリメイクされた名作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』について。
2024年のはじめ、宮藤官九郎が脚本を手がけたテレビドラマ『不適切にもほどがある!』が放送され話題になった。1986年と2024年の日本を舞台に、2つの時代で生きる主人公たち。バス型のタイムマシンに乗って互いに行き来し、次々に起こる問題への直面とその対応を通じて、それぞれの社会的課題を浮かび上がらせていく。この国で約40年の間に変化した社会規範の良い面も悪い面も、ユーモアを交えて批判的に描いたこの作品は、ひとまず現在の落とし所として「寛容であれ」というメッセージを提示し最終回を迎えた。
スパイク・リーがこのテレビドラマに関わっていたという話ではない。ただ、世代間の感覚差を描いたこの軽妙なテレビドラマを観たとき、ふと2019年にネットフリックスで公開されたドラマシリーズ『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を思い出した。このタイトルに見覚えのある人の多くは、1986年公開の映画版に思い入れを持っているかもしれないが。2019年の“ドラマ版”もリーが監督している。
ブルックリンに住む主人公ノーラ・ダーリングは、自分らしく自由に生きることを何より望む黒人女性のアーティスト。束縛を嫌う反動からか、複数のパートナーと同時に交際し、些細なトラブルを物ともせず日々を謳歌していく。というのが、1986年の映画版と2019年のドラマ版に共通する大まかなストーリーだ。
リーにとって、キャリア最初期にわずか17万5000ドルで制作した低予算映画を、動画配信サービス界の巨人が持つ資金力を使ってリメイクできたことは至上の喜びだったに違いない。しかも細部までいくらでも描き込めるドラマシリーズという形で(現時点ではシーズン2まで制作されている)。
そんな2つの『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を、ぜひ見比べてみてほしい。図らずもそこに映し出される33年の月日がもたらした変化は、もしかするとストーリー以上に興味深い。同性愛も含め、より丁寧に描かれるようになった性表現。近年加速し続けるジェントリフィケーション(都市の富裕化・高級化)によって、ブルックリンのフォート・グリーンにあるノーラの自宅マンションの隣に移り住んできた白人。ただ自由を求めるだけでなく、その権利をより強く主張するようになった女性たち。シーズン1の第3話『黒いワンピース』で取り上げられた、肌を露出した服を着る女性に向けられる男性の無自覚な差別発言や、それに対しノーラが怒る姿が印象的だった。
同じ監督が、同じストーリーの作品を、長い年月を経てリメイクするという離れ業。同じ監督だからこそ、同じストーリーだからこそ、長い年月を経た変化がくっきりと浮かび上がる。スパイク・リーはタイムスリップせずとも、確固たる信念と作家性をもって時空を超え、かけがえのないエデュケーションを与えてくれる。『不適切にもほどがある!』が良作であることは否定しない。しかしあれほど話題になるなら「こちらもいっしょにどう?」という気にだってなる。
そんな『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』には、マーズ・ブラックモンという架空のキャラクターが登場する。映画版ではリー本人が演じていた(ドラマ版では年齢的な事情もあってのことだと思うが、プエルトリカンの俳優に変わっていた)。FUJIのピストバイクに乗ってどこにでも現れ、とにかく軽口を叩く、マイケル・ジョーダンと地元ブルックリンをこよなく愛する小柄な男。
リーの自己投影によって生命を吹き込まれたマーズは、あまりのリアリティからか、ついには現実世界に飛び出していくこととなる。1988年、マイケル・ジョーダンとともに起用されたAIR JORDANのキャンペーンだった。AJ3を履いてジャンプするマーズ(リー)の頭にジョーダンが手を置いた、あの有名なビジュアルだ。架空のジョーダンオタクが、現実で本人と共演するという、マルチバース映画のような展開。事実は小説よりも奇なり。しかし、以降AJ6までリーが参画した一連のプロモーションによって、AIR JORDANシリーズのブランドイメージ確立に一役買った功績は紛れもない現実である。
UNIONオーナーのクリス・ギブスはかつてのインタビューで、1990年代初頭を振り返りこう語っていた。
「当時も今も、僕はスニーカーヘッズでね。人とは違うミックススタイルで合わせることを楽しんでいたな。僕にとっての初めてのJORDANは、AIR JORDAN 3。そのデザインとマーズ・ブラックモンを起用したCMに衝撃を受けたよ。語られないブラックカルチャーのストーリーの象徴としてJORDANの素晴らしさを伝える監督、スパイク・リーの手法が斬新だったんだ」
クリスと同じく、多くの人がリーの作品を通じてブラックカルチャーのストーリーを学び、その上で身にまとうべきファッションに出合ってきた。それはきっと、これからも続いていく。
最後に。ブラックカルチャーの代弁者として、スパイク・リーがその作家性を損なわずに活動し続けてこれたのには、「40 Acres and a Mule Filmworks」の存在も大きい。リー個人のために1979年に設立されたこのプロダクションカンパニーのおかげで、彼はいまもインディペンデントな監督であり続けている。そのスタンスは、クリス・ギブスがオーナーシップを持ち続けることで消費されることのない、UNIONの姿にも重なるものではないだろうか。
TEXT : Yohsuke Watanabe (IN FOCUS)
いつだって、映画からたくさんのインスピレーションを得てきた。そのストーリーが成り立つ時代背景や場所に流れる空気、劇中の音楽、登場人物が身にまとうファッション、彼らの口ぶりから。スパイク・リー監督の諸作もまた、例に漏れず。とりわけ20世紀後半以降の、ニューヨークを中心としたアメリカ都市部のブラックカルチャーを知る上で、最良のエデュケーションであり続けている。今回は1986年に映画が公開され、2017年にはNetflixのドラマシリーズとしてセルフリメイクされた名作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』について。
2024年のはじめ、宮藤官九郎が脚本を手がけたテレビドラマ『不適切にもほどがある!』が放送され話題になった。1986年と2024年の日本を舞台に、2つの時代で生きる主人公たち。バス型のタイムマシンに乗って互いに行き来し、次々に起こる問題への直面とその対応を通じて、それぞれの社会的課題を浮かび上がらせていく。この国で約40年の間に変化した社会規範の良い面も悪い面も、ユーモアを交えて批判的に描いたこの作品は、ひとまず現在の落とし所として「寛容であれ」というメッセージを提示し最終回を迎えた。
スパイク・リーがこのテレビドラマに関わっていたという話ではない。ただ、世代間の感覚差を描いたこの軽妙なテレビドラマを観たとき、ふと2019年にネットフリックスで公開されたドラマシリーズ『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を思い出した。このタイトルに見覚えのある人の多くは、1986年公開の映画版に思い入れを持っているかもしれないが。2019年の“ドラマ版”もリーが監督している。
ブルックリンに住む主人公ノーラ・ダーリングは、自分らしく自由に生きることを何より望む黒人女性のアーティスト。束縛を嫌う反動からか、複数のパートナーと同時に交際し、些細なトラブルを物ともせず日々を謳歌していく。というのが、1986年の映画版と2019年のドラマ版に共通する大まかなストーリーだ。
リーにとって、キャリア最初期にわずか17万5000ドルで制作した低予算映画を、動画配信サービス界の巨人が持つ資金力を使ってリメイクできたことは至上の喜びだったに違いない。しかも細部までいくらでも描き込めるドラマシリーズという形で(現時点ではシーズン2まで制作されている)。
そんな2つの『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』を、ぜひ見比べてみてほしい。図らずもそこに映し出される33年の月日がもたらした変化は、もしかするとストーリー以上に興味深い。同性愛も含め、より丁寧に描かれるようになった性表現。近年加速し続けるジェントリフィケーション(都市の富裕化・高級化)によって、ブルックリンのフォート・グリーンにあるノーラの自宅マンションの隣に移り住んできた白人。ただ自由を求めるだけでなく、その権利をより強く主張するようになった女性たち。シーズン1の第3話『黒いワンピース』で取り上げられた、肌を露出した服を着る女性に向けられる男性の無自覚な差別発言や、それに対しノーラが怒る姿が印象的だった。
同じ監督が、同じストーリーの作品を、長い年月を経てリメイクするという離れ業。同じ監督だからこそ、同じストーリーだからこそ、長い年月を経た変化がくっきりと浮かび上がる。スパイク・リーはタイムスリップせずとも、確固たる信念と作家性をもって時空を超え、かけがえのないエデュケーションを与えてくれる。『不適切にもほどがある!』が良作であることは否定しない。しかしあれほど話題になるなら「こちらもいっしょにどう?」という気にだってなる。
そんな『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』には、マーズ・ブラックモンという架空のキャラクターが登場する。映画版ではリー本人が演じていた(ドラマ版では年齢的な事情もあってのことだと思うが、プエルトリカンの俳優に変わっていた)。FUJIのピストバイクに乗ってどこにでも現れ、とにかく軽口を叩く、マイケル・ジョーダンと地元ブルックリンをこよなく愛する小柄な男。
リーの自己投影によって生命を吹き込まれたマーズは、あまりのリアリティからか、ついには現実世界に飛び出していくこととなる。1988年、マイケル・ジョーダンとともに起用されたAIR JORDANのキャンペーンだった。AJ3を履いてジャンプするマーズ(リー)の頭にジョーダンが手を置いた、あの有名なビジュアルだ。架空のジョーダンオタクが、現実で本人と共演するという、マルチバース映画のような展開。事実は小説よりも奇なり。しかし、以降AJ6までリーが参画した一連のプロモーションによって、AIR JORDANシリーズのブランドイメージ確立に一役買った功績は紛れもない現実である。
UNIONオーナーのクリス・ギブスはかつてのインタビューで、1990年代初頭を振り返りこう語っていた。
「当時も今も、僕はスニーカーヘッズでね。人とは違うミックススタイルで合わせることを楽しんでいたな。僕にとっての初めてのJORDANは、AIR JORDAN 3。そのデザインとマーズ・ブラックモンを起用したCMに衝撃を受けたよ。語られないブラックカルチャーのストーリーの象徴としてJORDANの素晴らしさを伝える監督、スパイク・リーの手法が斬新だったんだ」
クリスと同じく、多くの人がリーの作品を通じてブラックカルチャーのストーリーを学び、その上で身にまとうべきファッションに出合ってきた。それはきっと、これからも続いていく。
最後に。ブラックカルチャーの代弁者として、スパイク・リーがその作家性を損なわずに活動し続けてこれたのには、「40 Acres and a Mule Filmworks」の存在も大きい。リー個人のために1979年に設立されたこのプロダクションカンパニーのおかげで、彼はいまもインディペンデントな監督であり続けている。そのスタンスは、クリス・ギブスがオーナーシップを持ち続けることで消費されることのない、UNIONの姿にも重なるものではないだろうか。
TEXT : Yohsuke Watanabe (IN FOCUS)